日記 2023 年 9 月 3 日

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今の所属にきて 3 年である。ここでは、必ずしも楽しいわけではないが、希望もあるような話をする。

リスクについて

最大のリスク

今の私が直面している最大のリスクは、倒れてしまうことである。何回か書いてきている通り、所属先は私に、むしろ休暇を取るように、進捗は十分だから急がなくてもいい、と言われている。それでも私は、体力が許せば、研究をやってしまう。ゆえに、一歩間違えば、倒れる可能性がある。これが一番のリスクである。

最近では、平日は研究に必要な思考や勉強に全力投球をしている。休日はその反動で、長い時間休んでいる。休日も大半の時間は疲れ切っているので、ゆっくり休んでくれ、もっとビデオゲームをやれと言われている。さすがに所属先の方は、私にもっとゲームをやれとは言ってこないが。

ともかく、休みの日なんだから洗濯物をたため、洗い物をしろ、とはならない。外出時には、ルンバも走っている。

どうしてこれで、許してもらえるのだろう。自分の好きなように、好きなだけ数学をやると、周りから怒られたり、嫌味を言われたりするものではないだろうか。今が、今までの人生で一番、数学に打ち込んでいることに気付きつつある。

次に大きなリスク

次に大きなリスクは、自分には絶対回避できない職業上のリスクにより、自分の人生に苦難が訪れることである。いささか抽象的であるが、例えば、社会情勢が変化し、会社が経営危機に瀕する、などである。 2023 年の春も、経営危機になってしまった会社があったのは、報道の通りである。そこまでいかなくとも、例えば、社会の変化により、事業が整理されて、私には全く別の仕事を命じられ、好きな仕事ができなくなる、といったことも想像できる。

これに類することを、どのくらいの確率で私は直接食らってしまうだろうか。仮に私が向こう 30 年以上働けば、たぶん 1 回くらいは食らうだろう。その理由は、所属先は、通常の組織に比べて、市場や社会の変化を強く受けてしまうからだ。いくら研究職とはいえ、界隈にいることは事実である。激震地で研究生活をしていると言っても、過言ではなかろう。また、真に大きな不況であると、社会全体にも影響が出る。こういったリスクを、向こう 30 年以上ずっと回避し続けるのは、まずできない。リスクを回避するために外に出たとしても、その出た先では、今度はまた別のリスクにさらされる。

それでも、大学院などの学校の先生になる、医師になる、などのほうが、「激震地」よりは安定しているというのは、多分、正しい。だからといって、私は今の職業を離れたいとは全く思わない。むしろ、ずっと続けたい。ゆえに、私は今後 30 年以内に、ほぼ確実に大きな挫折を経験する。そして、それを回避することは、できない。

私がそのような苦難に陥ったときに、「ざまあみろ」と、ここぞとばかりに嗤う人も出てくるであろう。東日本大震災を「天罰」と称した公職の人間もいたのだから、同類はいるだろう。だが、将来私が苦難に陥ったときにも、下がっている私を引き上げてくださる方は、いらっしゃるのではないだろうか。

こういうことを十分わかった上で、いや、まだ十分はわかっていないかもしれないけれども、日々、研鑽に励んでいる。

コミュニケーション能力について

今の所属になってから 3 年経過しているが、周りの人との摩擦が生じたことは実は 1 度もない。周りの人はみな優しく、楽しく仕事ができている。

なぜ、こんなことになっているか。

周りの人たちのコミュニケーション能力が高いからである。いや、高いというのは正しい言い方ではない。高いというだけでは足りなくて、最高レベルだからである。

私の所属先では、新卒で採用された人の殆どが、営業職に就く。お客様も素晴らしい方ばかりなので、よいお客様に成長させてもらえる、のようなことをよく聞く。そして、それが非常に厳しい、苦労を伴う経験であるということも聞く。

そういった百戦錬磨の営業職経験者からみれば、私と一緒に仕事するのは、容易かろう。何と言っても、お客様ではなく、味方なのだから。

コミュニケーションが円滑に進むので、毎日毎日、研究対象に集中できる。私は合わせてもらっているだけになってしまっているとも言えるが、至らない私を置いておいてもらえて、良くしてもらっている。もっとがんばろうという気持ちになる。

上記を踏まえて、よくある事象に対しての、私が掴んだ理解を書く。

「コミュニケーション能力が高い・低い」と議論する様子は、 SNS などでよく見かける。こういう言説を見て、気落ちしている方が読者の中にもいらっしゃると思うので、以下、書いてみる。

もし、自分自身に、真に高いコミュニケーション能力があるならば、相手のコミュニケーション能力の高さ・低さは仕事の支障にならない。上述の、私の周りの人たちのように。他人のコミュニケーション能力の低さを論評したくなることそのものが、発話者のコミュニケーション能力の低さの証明であるとは、思えてこないだろうか。私よりは高いのかもしれないけれども。

つまり、その人は、結局は「俺はコミュニケーション能力が低いやつがただただ大嫌いだ」と言いたいだけである。ただ、そういうと下品だから、議論をするふりをしている。

私だって、論評されるなら、最高レベルの実力がある人から論評されたいものである。例えば数学であれば、当然、尊敬できる研究者の方たちから論評されたい。コミュニケーション能力についても、同様である。しかし、周りの人は、私のコミュニケーション能力に、全く苦言を呈してくださらない。そういうものである。

私見では、「コミュニケーション能力が高い・低い」と頻繁に論評する人たちは、学校の影響が大きいのではないかと思う。学校を卒業しているのに、未だに、囚われている。

私がこう予想するのは、「コミュニケーション能力が高い・低い」の、ある意味でのパラフレーズとして「社会に出てから通用しない」というのが存在するからである。

例えば私が高校生の頃、私の後輩が「それでは社会に出てから通用しませんね〜」と言っていたのを今でも覚えている。「社会に出てから通用しない」と言っている教諭たちを見習って発言していたのは明白であった。この言葉が出てくる状況を想像すると、学校くらいしかないのではないか。つまりこれは、学校社会特有の構文なのではないだろうか。「あなたは将来社会で重要な職に就くのだから、活躍するのであるから」と、上から目線で叱りつけるのも、これと同じである。学校関係者であったり、それに類する人でないと、できないのではなかろうか。

「社会に出てから通用しない」の、社会に出た後のバージョンが、「コミュニケーション能力が高い・低い」であろうと推測する。仕事をしている人には、社会に出てからどうこうという攻撃はもう通用しない。だから、本人のコミュニケーションを攻撃することに切り替える。それが、私見である。

逆に言えば、「コミュニケーション能力が高い・低い」と言っている人は、もし学校の先生になっていれば、その人は生徒や学生に「社会に出てから通用しない」と罵倒するのだろうと推測する。自分の経験は、棚に上げて。

再度述べるが、本人のコミュニケーション能力が真に高ければ、他人のコミュニケーション能力について、いちいち論評しない。そんな下品なことをしている暇があれば、相手と一緒に仕事をする。

自身のコミュニケーション能力が低いことを気にしている方は、そういう人たちがいっぱいいる世界にたどり着けば、問題は解決する。そのことには運の良さやご縁が必要かもしれないが、少なくとも、「コミュニケーション能力が高い・低い」と論評している人たちとお付き合いをするよりも、生産的な行動は見つかる。

私はコミュニケーション能力が真に高い人たちに囲まれて普段働いている。日々、とてもありがたく感じている。そういう世界があることに、生きているうちに気がつけたことを、ここに書いておく。