2025 年 2 月 7 日

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医学部医学科に進学しなかったことについて書く。

進学しなかった理由

以前から書いている通りであるから、簡潔に書く。

家庭と地域による教育虐待を苦に思い、あろうことか医学部受験を自殺の道具として使用した事実がある。ゆえに、単に運良く入試で点数が取れただけの私に、医師になる資格は全くない。それどころか、大学に合格していても構うことなく、あのとき飛び込み自殺するべきだったかもしれないと、今でも時々思い悩んでいる。まともな育ち方ができなかった私は、本来、成人する前に摘み取られるべきであり、生きていてはいけない人間である。仮に天寿を全うするにしても、見知らぬ人からも含め一生、石を投げられながら命が尽きる瞬間までの時間を過ごす。一方で、高校教諭や両親は、今まで 1 秒たりとも真摯に反省せず、自殺未遂の事実を知りながら、「俺達の教育があのバカを合格させた」と、陰湿な地方で自慢し続けている。

それでも、もしも、前期課程時代の同級生の中に良い友達ができていれば、違っていたと思う。「この人は私と一生の友達になれる」あるいは「この人が同級生ならば、私のような者が医師になっても明るい人生を歩める」という人が近くにいれば、すべての批判をはねのけて、医師になっていたであろう。現在の私は、周りの人に恵まれていて、たくさんのプラスの影響を受けている。良い人には惹かれる。このことを裏返せば、そのような帰結に至る。

理学部数学科に進学したのは、現代数学なら興味が続いていくから、少なくとも卒業はできるという目算のためである。実際、つぶさに考え、諦めずに計算すれば、大学や大学院の数学は自分のペースでできるようになっていく。大学教授になりたいとか、自分には人格があるとは、思っていなかった。周りの人は、自分は天才である、自分が一番優秀という自信に満ち溢れている人ばかりで、しかも好戦的な人が多かった。進学目的が大学卒業・大学院修了で、馴れ合いにも興味がなく、その後のことはよく考えていない私とは、合わなかったように思う。

生まれた瞬間から無意味な人生である。加えて、自殺未遂者である。例えるならば、昔のアーケードゲームでいうところの、タスクをクリアしたあとで開放されるエキストラステージ。あとはライフが尽きるまで、残りの時間を過ごすだけ。ならば、望んでいたはずの人生がどのようなものであったか、無意味なりに体験したい。 19 歳以降、ずるずると生きている理由である。

今、自殺したいとは思っていない。天寿を全うするまで、待つだけでよいとわかったからだ。それまでの間、空っぽのはずの人生に道筋を引いてくれた会社に恩返しをしたいと思って、研究開発をしている。

何かをするために、生きているのではない。何もしないために、生きている。

現職との比較

あくまでここでは仮に、後期課程で医学部医学科に進学し、種々の試験を突破し、医師免許を得て、初期研修を経て、以降なにがしかの職で、医師を生業にしていたと仮定する。

この状態で、現在と比較した際、現職の長所は、少なくとも 2 つある。ただしそれらはここには記さない。その 2 つ以外の長所としては、自分が一生到達しないであろう富裕層のものの見方を知ることができることが挙げられる。セルサイドにしてもバイサイドにしても、稼ぐお金が大きいとここまで悩むのかという苦しみを追体験できる。この世の真理の 1 つである。

逆に、医師になった場合の長所は、いくつかある。例えば、医師になった場合のメリットの 1 つとして、婚姻率の高さが挙げられる。しかし、私の子供は両親の孫なわけで、デメリットになりかねない。他には、医師として職を失う可能性と、金融業で職を失う可能性であれば、前者のほうが圧倒的に小さいことが挙げられる。

どちらが勝るのかわからない要素もある。その 1 つが、周りの人の質である。会社では、人に、極めて恵まれている。入社以降、人間関係で嫌な思いをしたことが一度もない。それでも、職務上、不本意なこともあるにはある。しかし、制度が整備され解決されたり、上の人が解決して下さることを体験している。この点、医師の世界も、働き始めると、良縁にたくさん恵まれる可能性はあったと思う。自分の手術をしてくださった先生の努力は、一生忘れることはない。

結語

昨年、ある医師が書類送検された。その人については、報道がなされている。手術を受けた多くの患者の人生は狂い、ひどいと術後すぐに亡くなったという事実がある。その人本人と思しき SNS のアカウントが最近出現している。そこに書かれている内容に、ひどく違和感を持った。このような人が医師をやるのであれば、私の思い悩みとは一体何だったのか。もしこの人の代わりに医師をやっていれば、どうだったであろうか。そんなことを考えているうちに、この記事は書き上がっていた。

現在の仕事は、人類にとっては、あまり意味がない。会社が大きくなると、たくさんの人が幸せになるというのは、おそらく真の命題である。しかし、究極的には、資本主義社会のマネーゲームである。このことは、否めない。患者の命を直接または間接的に救ったり、数学の研究で人類の知のフロンティアを前に進めたり、学校の先生として大学生や大学院生を導くほうが、ずっと意味があると考える人は多かろう。

しかし、私の人生は、無意味なものである。あとは、命が尽きるだけで、この世に生を受けたがゆえにするべきタスクは、全て完了する。ならば、残りの時間は、他の人にとっては無意味な対象に費やすのも、おかしくはないのではないか。この業界にはたくさんの素晴らしい人達がいるが、それでも人類にとって比較的意義深くないことを、人生の彩りが豊かな人にこなしてもらうのは、社会的な損失ともなりかねない。私のような、もう死んでしまった、これから死ぬだけの人間には、やりがいがある。