2025 年 5 月 6 日
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今日も Q&A を書きます。
なぜ郊外に住むか
最近多く聞かれるようになってきました。意図的に都心を避けており、郊外に住んでおります。このことには、いろいろな立場の方から、とても驚かれます。
理由は 2 つありますが、ここで書ける理由は片方だけです。研究開発に集中するためです。
上京後 5 箇所の家に住んできました。勉強と研究の面から見て、好調だった頃と、不調だった頃があります。ゆえに、好調だった頃にあり、不調だった頃になかったものを明らかにすれば、今後、よい住まいを選択できると考えられます。
複数の要素を調べた結果、研究開発に良い影響がある要素がわかってきました。それは、近くにコンビニやスーパーがあるということでもなく、徒歩や電車で学校や職場に通いやすいということでもなく、静かな住宅街であるということでもなく、近くに便利な施設があるということでもありませんでした。郊外にある、または、学校や職場から距離が離れている、のどちらか、あるいは両方でした。この 2 つの要素は同様のものであるため、郊外という表現で両方を指し示すことと規約します。
郊外に住むと、なぜ研究開発がうまくいくか。その理由を自分なりに考えました。職場から一定の距離があることにより、落ち着いて物事を考えられるということが、主な理由として挙げられます。より具体的に示すなら、次のようになります。
理科一類に不合格になったあと、背伸びして先取り勉強をすることを永遠にやめることにしました。意味がないと思ったからです1。結果、周りの人は難しい内容をやっている中、講義や本や論文の内容を納得いくまで考えているという状況が学生時代に生まれました。そういう状況であると、みんなが見ているところで勉強することは憚られます。だから自宅で “こっそりと” 勉強や研究をしているほうが、精神安定上よいです。
同様に、会社にいても、皆が利益につながるような営業・開発活動に勤しんでいる中、研究開発を行うために勉強をしますといって本を開いているのは、なかなかの勇気が必要です。勉強や調査をしても、その時間、利益をあげているわけではないからです。また、その勉強時間は、長期に及びます。例えば 8 ヶ月間もそういうことをしていると、さすがに文句は言われてしまいます。それらは 1 年後や数年後に思わぬ方向で事業に役に立つとはいえ、その期間、貢献もせす、何もしていないように見えます。そういうことを自覚できているので、自宅で “こっそりと” 研究開発をすることを、中心に据えるべきです。
これらの内容は、気持ちの問題でありました。それ以外の理由として、田舎出身なので、郊外の暮らしのほうがなじむというのは、事実です。庶民的なスーパーで弁当を買ってきたり、何をするわけでもなくショッピングモールを歩いたり、家族に恵まれた子どもたちが健やかに遊んでいる様子を見たり、公園を散歩したりすることで、落ち着きを取り戻します。
こういうわけなので、郊外にいます。今後、会社が出社を頻繁に命じる場合も、住む場所が郊外であることは、なんとか、維持できるとよいと考えております。
なぜ起業しないか
この理由も、研究開発に集中するためです。
今の会社に入社して衝撃を受けたことの 1 つに、業務担当・庶務担当の方々が非常に優秀であるということが挙げられます。どの部門、どこに行っても、強力にサポートしてくださいます。仕事を減らすために、仕事をしてくださっている。それまでの人生経験からは、ありえないことでした。それと同様に、そうでない方々も、親切です。例えば予算の獲得や執行は、手続きする内容がほぼない状況です。全員ではないにしても多くの方が、百戦錬磨の営業経験者ですから、こうなるのは不思議ではありません。「新人のときの 3 年が、他社の 10 年に匹敵する」という、いつものあれです。
現在の研究開発は、研究開発をやることが、研究開発の内容になっています。わかる人なら、この文の真意が伝わるでしょう。
もし自分で起業するとなれば、このような強力なサポートが受けられなくなります。加えて、資金調達や人員配置や外交のために、時間が削られるでしょう。他の人がもっとうまくやれることを、私がやっているという状況を、私自身が許せるでしょうか。
自分の時間を研究開発に振り分けるために、大きな民間企業の中で、居場所を作ってもらうほうがよいと考えております。私が周りの人に何度も感謝の言葉を書いているのは、決して形式的なものではありません。本心です。平日が、周りの人の不断の努力により実現されていることを、深く理解しているからです。
生きていくことについて
今の私にとって、生きていくということは、死ぬまでの時間を待つということです。これが最も正しい表現です。
自分の人生はとても無意味なものだと理解しています。叩かれたり、殴られたり、蹴られたり、怒鳴られたり、盗まれたり、物を投げられたり、貶されたり、中傷されたりしているうちに、遅くとも中学生の頃には、そう思うようになりました。地元に足を踏み入れれば、毒を盛られたり、背中を刺されたりして、殺されるかもしれない。今もそう思っています。なぜなら、 18 歳までの間に、実際にそうされてきたからです。あの両親のもとに、あの地域に生まれた瞬間から、終わっています。
それが 19 歳のときの、自殺未遂につながっています。あのとき飛び込み自殺を実行するのが “正しい” 人生の終わり方であり、今生きていることはそれ自体間違いを積み重ねているだけであるという事実は、決して否定ができません。あのとき自殺を実行できていれば、両親も、小中高の教諭たちも、同級生たちも、葬式までは悲しんだふりをしていたかもしれませんが、内心は最高に喜んでいたでしょう。日本にそういう地域は、未だにあります。
数学科に進学したのは「望んでいた人生はどういうものだったか “見学” してみよう」という気持ちからです。そしてその疑問には、今では答えが出ています。確かに東大数理には、数学者として大学教員になる定跡は用意されている。しかし、たとえ東大数理の教授になったとしても、どれほど名声を勝ち得たとしても、それは相当損な人生である。実際、数学者は、口では他人に興味がないといいつつ、嫉妬心の強さを驚くほど隠さない。どれほど成功していても、そうであるという事実を目の当たりにすると、そういう人たちに囲まれて生きていくのは、不幸なことであるのは、認めざるを得ない。それでも数学を専攻しておくことは有利なことであり、例えば、民間企業で自分の好きな研究開発を満足いくまで行うことができるので、ずっと幸せにつながる。以上が答えです。
やりたいことは、もうすべてやりました。成し遂げるべきことは、もはや 1 つだけです。それは、このまま死ぬことです。死ぬことだけは絶対に必要で、死ぬことにより、父方の血筋を絶やすことができます。より正確に言えば、子どもを「持たない」こと。これが、生を受けた代償として、最後に「やらなければならないこと」です。
普通の人にとって、生きていくことには意味があります。しかし私には全くありません。もちろん、研究でこういうことを知りたい、ゲームの続きがやりたい、もっと勉強したい分野がある、といった目標は、今も持ち続けています。しかし、今日命を落としても、死にきれないほど後悔するかというと、別にそれほどでもありません。
では、なぜ自殺をしないか。そんなものは決まりきっていて、人間は死のうと思わなくても、勝手に死ぬからです。
昨年、手術を受けました。執刀医の先生に、原因を聞きました。答えは「なぜなのか、わからない」でした。しかし手術は完全に成功しました。この瞬間、「人間は必ず死ぬ」ということがはっきりと実感できました。頭の中では、文字の意味するところはわかっていました。しかしこのとき初めて、死から人間は逃れることはできない、何をしても、どのようにしても、必ず、人間は、いつか死ぬ、ということが実感を伴って、心から納得できました。
私の人生に意味を与えることは最初から最後までできないし、実際、今日死んでも全く後悔せずに死ぬことができます。それでも、命の重みは、変化しています。周りの人が期待してくれているからです。
あれほどお客様や従業員の幸せと利益を追求する立派な会社なのに、研究開発専業でいられること自体が奇跡です。それどころか、上述のように、強力なサポートが得られています。加えて、研究テーマについて、裁量がかなり大きいです。在宅勤務の日数や有給休暇の日数も多いですし、雇用も安定しています。
これらの並ならぬ好条件は、ひとえに、私たちが出す研究成果が、最後には会社の利益向上に、何らかの形で鍵となる役割を果たすからです。それを大いに期待されているからです。そんな中、勝手に命を落としてよいわけが、あるはずないでしょう。
もっというと、私がいなくても、素晴らしい会社なので、回っていくことでしょう。しかし、年々、研究開発をする人が会社に在籍していること自体の価値が増すようになってきています。代替を用意するのは大変です。職務の重みを、良い意味で感じております。
以上をまとめると、生きていくということは、死ぬまでの時間を待つことです。私みたいな人間だと、生きていくことに意味を与えることは決してできないから、人生を充実させることはできないし、たとえ今日死んだとしても、やり残したことは何一つありません。しかしそれは、死に急ぐことを意味しません。いつか必ず死にます。死を迎えるまでの時間を過ごすこと。それが生きていくということの、私にとっての定義です。
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実際は、学部入試で浪人しようが、早急に教授に関係する研究に直結する内容をキャッチアップすることは大学教員になるうえで非常に有利です。ゆえに、先取り勉強は大学以降ではむしろ重要なことです。しかし、例えば今の私のように、企業で研究開発を行うならば、自分の見方で基本の内容が消化できている方が、人と違った使い方ができて有利でしょう。 ↩