『龍が如く 6』の感想
Updated:
『龍が如く 6』の感想を書く。
前提
『龍が如く 6』は、シリーズの中で、おそらく最も否定意見が多い作品だろう。検索すると、いろいろな批判が出てくる。その中には、正しいと思えるものも多くある。しかし、現在(2022 年 9 月)の私の視点から見ると、時代や立場の違いだと思えることもある。そこで、私の感想をここで述べる。
まず書いておきたいこと。龍が如くシリーズは、とてもストーリーが良い。特に、インターネットでネタバレを知ってからプレイするのとしないのとでは、全くゲーム体験が異なってしまう。もし、この文章を読んでいる人のうち、龍が如くシリーズに少しでも興味がある方は、この記事を読まずに『0』から順番にプレイするのがよいかと思う。
以下、読者は、『6』までプレイしたことがある方、または、そうでないけれどもネタバレを食らっても問題ないと覚悟した方であると仮定する。ただし、前者を主に念頭におく。後者の方にわかるような説明は、しきれないかもしれない。
結論
先に結論を述べておくと、以下の通り。
- ストーリー:『1』から『5』を経たプレイヤーが、遥ちゃんにどのような印象を抱いているかで、評価が大きく変わってしまう。私は、本作を駄作だと酷評する人の気持ちもわかる。個人的には、遥ちゃんについて比較的客観的に見ているので、怒りまでは感じなかった。
- ゲーム:発売当時 (2016 年 12 月) は、過渡期であったので評価されないシステムも多かったが、現代 (2022 年 9 月) の視点から見ると、概ね正しい方向で進化を遂げている。
後者は、現代のゲームをやっていれば、納得できることが多いだろうから、少しだけ書くことにする。本稿では、前者について、主に記述する。
ストーリー
ストーリーを確認する。遥ちゃんの点から確認すると、以下のようになる。
『5』の結末において、大阪の芸能事務所に所属していた遥は、ドームライブで、育ててもらった桐生が元極道であること、そして桐生が家族であることを宣言し、芸能界を電撃引退する。引退後、遥は、沖縄の児童養護施設に戻る。桐生は、刑務所に入り、罪を償い、身を清めることにする。遥とまた家族として過ごすためである。しかし、刑務所を出た桐生が沖縄に向かったとき、遥はもういなかった。
遥の引退後、世間の目は厳しかった。児童養護施設が週刊誌報道で明かされ、インターネットでは中傷が書かれた。このままでは、他の子の進路にも影響しかねないと思った遥は、家出を決意したのであった。行方を追うと、遥が事故に遭ったという知らせが来る。遥は意識不明の重体である。そして、そこには、なんと、赤ん坊がいた。遥の子である。このため、桐生は遥の子の父親を探すことになり、それがゲーム部分の幹となる。
結末を述べると、遥の子は、広島の極道であった。エンディングにおいて、遥は夫と子供と共に沖縄に戻り、家庭生活を始める。伝説の極道・桐生は、偽りの死亡証明書と共に、世間からは死亡したことになる。桐生が本当は生きていることを知る人間はごく数人であり、これから新しい人生を始めることになる。
本論に入る。「気づいたら子供がいた」という点について、どのように考えるかで、ストーリーの印象が変わる。思考実験として、遥ちゃんではなく、『Fate/Grand Order』のマシュの身に、同じことが起こったら、プレイヤーはどうなるのかと想像すれば、よくわかると思う。こんな例えしかできなくてすみません。そうすると、少なくともマシュの場合、 2 つの点に難点があるとわかる。
1 つは、「失恋」である。もしも、世界で一番かわいい後輩であるマシュに「気づいたら子供がいた」ら、マスターなら誰でも失恋のような感情をいだき悲しむと思う。 FGO の主人公は、プレイヤーが男女を選べるが、どちらにしても悲しいだろう。
もう 1 つは、「呆れ」である。お前どうしてヤクザの間に子供つくったのだよと。マスターなら誰でも、こんなに愚かな子だとは思わなかったとなるだろう。あくまで思考実験なのだが、自分で書いていて悲しくなる。
『龍が如く 6』の遥ちゃんの場合も、まずこの 2 つを分けて考えることが重要だと考える。
多くのプレイヤーは、「失恋」はしない
その観点でいくと、「失恋」のほうは、多くのプレイヤーにとっては、当たらないのではないか。なぜなら、『1』から『5』までプレイしてきた多くのユーザーにとっては、遥ちゃんは、子のようなものであるからだ。桐生にとって遥ちゃんは、最愛の人の最後の形見であり、 9 歳の頃から育ててきた我が子のような存在である。桐生は遥ちゃんの親代わり、という表現が何度もされる。したがって、多くのユーザーにとっては、恋愛対象にはならないと期待される。
『6』のストーリーのテーマの 1 つは、間違いなく「親と子」である。巌見親子、広瀬一家、祭汪会、ジングォン派、そして桐生と大吾、と示されるのだから、桐生と遥の関係も「親と子」として描かれているのは論を俟たない。その観点から考えると、ストーリーライターは「娘に恋人ができ、子供ができたときの、親の気持ち」を描こうとしていると考えるべきである。そしてこの点については、『6』への賛否問わず、意図はプレイヤーに伝わっている。
以上の観点から考えると、「失恋」の方は、本作で感じるプレイヤーは少ないだろうと思われる。そういう人がいるのは自由だとは思うが、少数であろうといえる。
矛盾点に「呆れ」を感じる
そこで問題は「呆れ」の方である。単に遥がヤクザと子を設けているだけではない点が、非常に良くない点である。
遥が沖縄を出ていったのは、自分がいると養護施設の他の子に迷惑がかかるためである。そしてその大本の理由は、自分の育ての親が、元伝説の極道・桐生であることを宣言したからだ。要するに、遥の家出は、桐生と同じ「身を清める」方向を向いている。
しかし、広島で関係を持ったのはヤクザである。そして、エンディングでは、足を洗ったとはいえ、夫とともに沖縄の児童養護施設に戻ってくる。プレイヤーは呆れてしまうだろう。夫が元ヤクザならば、桐生が何のために刑務所に入ったのか、と。その状態で児童養護施設に戻ってくるならば、何のために家出したのか、と。一応、途中で桐生が「誰の血を引いているかで人を見るな」と言う箇所が 1 箇所あるものの。
最初と最後をつなげて見ると、プレイヤーは何のために『6』を最初から最後までやり通したのかと思ってしまう。一般に、ビデオゲームのプレイヤーは「自分のやったことは、徒労だった」と思ってしまうと、やるせなくなるものである。
怒りまでは感じない理由
それでも、私が怒りを感じないのは、遥ちゃんには、そこまで思い入れがないからである。
龍が如くシリーズは、極道の男の生き様を描いた作品である。中年世代の男性キャラが魅力的なのであって、遥ちゃんはサブキャラだ。そもそも、遥を物語上かわいく描くノウハウも、制作陣には、特に初期の頃はなかったのではないか。『1』から『5』には「遥のおねだり」というエンドコンテンツがあるが、これは結構な鬼難易度で、大変である。
当時の公式人気投票を見ると、『5』の発売後の時点で遥ちゃんは 10 位以内に入っていない。遥ちゃんに「気づいたら子供がいた」となっても、先程の思考実験と違って、傷つく人はあまり出なかったのでは、とも思う。これが冒頭に書いた、立場の違いというものである。
上では色々書いた。しかし、私の中で遥ちゃんに思い入れがないから、上記の仕打ちを受けても、怒りという感情がそもそも湧かない。矛盾しているとは思うものの、酷評しようとは思わない。反面、遥ちゃんを、幼いながらも分別のあるヒロインだと考えていた人は、それがゆえに大いに失望するであろう。そのことには、無理もない。
ゲーム性
反面、ゲーム性については、全く不満を感じなかった。
マップについて。このゲームは龍が如くシリーズでは初めての、現代的なデザインが取り入れられている。入店でマップが切り替わらないのは、今では普通のことではある。チャンピオン街が常時工事中で、ヒルズ方面に行けないのは、ボリュームダウンせざるを得なかったからだろう。いくつかの登場人物も、サブストーリーの量も、妥協する必要があったのだろう。
成長要素について。食事でも経験値を得て、それを割り振るのは、どうやら当時は酷評されていたようだが、むしろ正解だろうと思う。
成長をこなせば、バトルも快適である。全部成長させてみるのとそうでないのとでは、もしかしたら印象が違うかもしれない。『極 2』もやったが、バトルに関しては、それ以前の作品たちより優れていると確信している。
2016 年は、例えば『Pokémon GO』が出た年であり、スマホアプリゲームに比べて、コンシューマー機のソフトは過渡期であった。あとから見ると適切なゲームデザインだとしても、評価されるまでは時間がかかったのではないか。