2025 年 3 月 19 日
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人生について、最近の考察
文章を読み返してみると、論旨が伝わりづらかった。全文を書き直す。
論旨
人生の全ての局面で成功すると、却って到達点が低くなってしまう。より高みに至るためには、一旦下り、再度登っていく必要がある。
根拠
学校教育では、成功とは失敗していないこと
そもそも、人生における成功の定義とは何か。成功の普遍的な定義は困難であり、私はできない。しかし、学校教育において成功とは失敗していないことと定義されるという認識は、おそらく真実に肉薄している。
ずっと学校で過ごすと仮定する。人生の成功を生まれた瞬間から洗い出すと、まず、両親と才能に恵まれる。次に地域に恵まれる。その後、幼少期から大学院まで教育に恵まれる。節目節目で志望校に合格する。留年せず卒業する。業績を量産する。積み上げていき、出世する。これが、成功に溢れた人生である。
これらは、成功というよりも、失敗していないということに他ならない。その証拠に、具体的にどのような成功をしたか、その中身については全く書かれていない。中身が問われないのは、失敗という “余計なこと” をしていないことを定義としているからだ。もちろんそれぞれに中身が伴っているという指摘は正しいが、中身そのものを問われていないという点で、他の活動、例えばビジネスとは異なる。ビジネスにおいては、最近では SDGs も叫ばれるようになってきたので、成果だけではなく、中身や過程のほうも厳しく問われる。
私自身、少なくとも大学院生の頃は、これらが成功であることに、疑いを持っていなかった。全ての局面で成功すれば、その結果は必然的に “満点” になり、最上の人生に到れると思っていた。そして、生まれた瞬間に人生が終わっている私は、人生そのものは捨てるべきで、何をしてもその到達点は必然的に低くなると思っていた。私の人生そのものは、頑張りがない。それが、かつての私の結論であった。
成功だけを繰り返すと、局所最適化に陥る
しかし、前段落の過去の認識がいかに間違っていたかを、今では理解できている。全ての局面に成功できる人は、持ち前の頭脳で、局所最適化をし、極大点に至ることはできる。しかし、到達点自体は低くなる。広い視点から見れば、もっと高い到達点はあるが、そこを見上げることすらできないで終わる。すなわち、認識に至らないで終わる。
成功とは失敗していないことだと定義するならば、成功し続けると “満点” どころか、割と低い点に収束する。容易なことでは、そこから抜け出せない。
局所最適化を「狙って」行うのであれば、それはそれでよい人生であると思う。しかし、実際は狙ったわけではなく、認識に至っていないだけではないか。全てに成功しているがゆえに、他の道が見えないまま、または、他人事として聞いただけのまま、真っ直ぐな高速道路を突き進むだけになる。結果、自己批判を伴わないため、次の世代にも自分は勝ち組だという言説は引き継がれ、繰り返される。そうして、未来があるはずの若者は、困惑する。そのことに、一部の老いた人間は、愉悦を覚えているような節すらある。
局所最適化に陥らないためには、一度下る必要がある。山から一度下る決断をし、別の山の方向に向かって再出発する必要がある。偶然でも戦略的にでも、どちらでもよい。焼きなまし法である。だから皮肉なことに、先程述べた、成功とは失敗していないことという認識の真逆を行くことが、成功のために必要である。例えば学生時代に方向転換をしたり、一度就職しても退職をしたりするのは、むしろ必然である。
「横軸」のリスクの管理は、別の能力が求められる
局所最適化を繰り返すだけでは、絶対に届かない領域がある。リスクを考慮していないからだ。正しいリスクをとることも、到達点を高めることに必要である。リスクの部分は、立場上はっきりと書けないことが多いが、一例を挙げることにより、ほのめかす程度に書いてみようと思う。
例えば、数学の業界は、お金の使い方には苦しい部分がある。エリート意識の強い数学者は、予算をもらえるのは運と実力があるからであり、自らの給料は十分もらっていると自覚しており、結局はお金の話題を他人事のように聞いている。頭が良いので、自分の生活においても、リターンの期待値である「縦軸」を伸ばすことに局所最適化することはできている。例えば、割引率やポイント、または、自分の労力を考慮して、一番得な購入方法で日常品を購入するということは、得意な人が大半である。世捨て人のように振る舞っている人でも、実際はそういうのに気をつけているのを見ると、非常に安心する。
しかし、それ以上の世界を知らないで終わる。数学の大学教員の可処分所得は、日本人全体で見ると十分上位に入るが、それでも抑えられている。予算の使途には厳しい制約がつく。これらは、幸せのためであると私は理解している。幸せとは、知らなくて良いということである。実際は、お金を持てば持つほど、リスクである「横軸」に強くならなくてはならず、苦悩に苛まれる。リスクの管理に関しては、学校教育は通用しづらい。ある程度横軸側に理論があるものもあるにはあるが、最後に勝敗を分けるのは、別の要素である。
例えば、本当は非常にリスクが高いのに、リスクが低いと思い込んでいて、突っ込んでいっていないか。非常に低確率で起きるテールリスクに対して、異常に手厚くヘッジしていないか。もっと稼ぎがあればやるはずのないことを、やってしまっていないか。など。何らかの形で大金を手にしても、それによって不幸になる人はしばしば観測されるが、この辺の事情が絡んでいる。
リスクに無頓着でもかまわない状況にまで、後退を許容するのであれば、局所最適化でもよいのかもしれない。しかし、そういう人の言う事を、一般には、無批判には信じてはならない。
真理は普遍でも、人類社会のほうが変化していく
別の視点から補足をすると、人間社会のほうが変化するということを考慮するべきだ。確かに、数学における真理は、時代が進むと間違いになるということはありえない。そういう商売は、数学者以外にもあるであろう。しかし、通常の人間社会では、新しい考え方についていく必要がある。今まで成功していたビジネスが、ある理由で突然うまくいかなくなる。これが本当に厳しく、大変なことである。局所最適化をし、山を登り続けることは、地盤沈下により人生を凋落させることに繋がりかねない。無知な人にどれほど失敗だと非難されようとも、方向転換と再出発は、各人の身を守るために必要な選択である。
この段落は余談である。数学専攻の人の有力な就職先として、少し前だと金融業界、今だと IT 業界が挙げられる。しかし私は本当にそうかなと思っている。数学は、一度証明された定理は不朽であるし、業績があれば一生安泰である。しかし金融業界も IT 業界も、社会の変化により、正しかったことが突然不正解になるため、新しい考え方に絶えずついていく必要がある。真理の求め方が正反対であるというのが、私の偽らざる認識である。数学が得意で、アカデミアに残らないと決めたのなら、一度身につけたことがずっと生きていくような業界に転職するのが、幸せに直結する。ゆえに、一つの選択肢として、医学部医学科再受験は、合理的な選択である。実際そのようにした人は、複数観測している。