批判を受けると
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趣旨が伝わりやすいように書き直す。(8/9 更新)
まず、建設的な批判は、ありがたいのは当然のことである。足りないところ、伸ばすべきところを示してくださり、進むべき道がわかる。自分では気が付かなかったことを、親切にも教えてくださる。豊富な専門知識と経験に裏打ちされている。そういうのは、見ればわかる。温かい気持ちになる。
ここでいう批判とは、そういう優れた批判ではない。感情的で、些細または無意味なものである。相手を貶して、自分の気持ちだけ満足させたい。そういう下品なタイプの批判を受けると、私がどういう気持ちになるかを述べる。
最近は、批判されると「やったー」と思うようになってきた。
例えば自分の住んでいるところが批判されていると、この場所は今後伸びていくと確信できるようになった。変なやつ、わけがわからんと言われるのも、その人を活かしきれている組織が巧みであると言っていることになるので、我々は上昇していくことになる。
私も 30 歳くらいまでは、批判されると「嫌だな」という気持ちになっていた。しかし、何度も経験しているうちに、法則がわかってきた。因果関係がわかり、今では、批判を言われた瞬間に、喜ぶようになった。頼んでもいないのに、無料で我々を応援してくれている。
少なくとも普通の人は、高度な資格を持っている人、先生と呼ばれる人、高得点を取れている人、優れた教育を受けている人、良い学校を卒業した人というものは、立派だと思うはずである。そういう人たちが、日本最底辺の下品なやつらと同類になってでも、批判したい。自分を下げてでも、貶したい。叩いて、気持ちよくなりたい。こういうふうに退行してしまうのは、なぜかというと、相手がそれほどまでに優れたものを持っていて、それを自力で超えることを諦めるしかないからである。こういう嫉妬は養分になって、上昇気流を形成する。
近年は、陰謀論という逆神までいるので、批判されると悲しくなるどころか嬉しくなるべきであろう。
最近は、数学の先生は、金融業界の揶揄をしてくださらなくなったので、とても淋しく感じている。「純粋な数学への興味によってであり、儲けるためではない」「資本主義はくだらない」というようなものである。この上で、「俺より不優秀だから就職するしかなかった」「数学がダメでも民間企業が雇ってくれる」のようなことを言うかどうかは、人によるが、歓迎する。この手のことを発言することで気持ちを整え、歪みを作り出してほしい。歪みがあればあるほど、相対的に負担もリスクも小さくなる。
もう少し言うと、データサイエンスへの批判は足りていない。「あんなものは高度な数学の洗礼を受けた者がやるものではない」「コンピュータを触っていると数学はできなくなる」のような批判が教授陣からあからさまに出てくるようになると、ビジネスとしても学術としても立派に成熟してきた、安定してきたということになるであろう。それまでは、何回かかかるリセットを乗り越え、札束を積み上げる勝負をし続ける覚悟がいるように思う。