やることに対する尺度

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これは雑記です。何かを目的とはしていません。

自分の所属組織のために仕事ができれば、それでいいと思っています。

やりたいことが細っていくということは、あまりありません。今でも向上心を持ってやっています。ほぼすべての時間を大学・大学院で過ごしていた 20 代のときよりも、ずっと今のほうがやる気が出ています。

大学・大学院での研究と、現在の研究は、やっていることはあまり変わりません。しかし、目的意識には異なる側面があります。このことは、いつか説明したいと思っています。今年のマイルストーンが達成できてからが、いいのではないかと思っています。

確かに、昔は興味があって、今は興味がないことというのは、いくつかあります。その 1 つが、プログラミングです。これも、私に時間が無限にあったらやるところです。しかし、研究業務と、休憩時間の兼ね合いで、どうしても押し出されてしまっている状況です。

専門といえることが 1 つあれば、他のことはアマチュアレベルでも、許されるのではないかと思っています。例えば、受験数学や競技数学が趣味の人は、世の中にはたくさんいます。それを見て、少なくとも私は「本物の数学を知らない」ということは、決してありません。そもそも、専門数学は、受験数学や競技数学を上書きするものでもありません。競技プログラミングエンジョイ勢である私は、肯定します。

ですから、立場を逆にすれば、自分が英語の勉強をすることについても、専門家の人から同様に思われているだろうと、容易に想像がつきます。私が英単語を覚えたり、作文や発話の練習をしたり、問題を解くのをエンジョイするのは、競技数学に一生懸命取り組むようなものでしょう。しかし、「本物の英語を知らない」と言いながら、意味ないから勉強やめろと批判する専門家は、まずいないでしょう。専門家の物の見方を真に予想できるから、勉強を続けられます。

そもそも、自分の専門以外のことがどれだけできるかは、そこまで厳しく問われうることでしょうか。今の私は、小学校で習った植物や動物の性質をすでに忘れています。また、小学校で日本の地理を勉強しました。しかし、それは 20 年以上前のことです。仮に「正解」を覚えていたとしても、教科書の方が書き換わっています。ゆえに、「正解」は誤りになっていることでしょう。最近中学入試がありましたが、私の知識のある程度の部分は小学生以下です。他の例だと、私の大学時代の同級生には、炊飯器に水を入れずにスイッチを入れた人もいました。それは、笑いの対象かもしれませんが、しかし、大学生になっても確定申告をやったことがない人は、結構いるのでは。簿記になると、どうでしょうか。

専門性を極めることでしか尺度をもたないと、困ったことになるような気もします。将棋や囲碁はどうでしょうか。タイトルをとったり、優勝したりしないなら、意味がないのでしょうか。普通のビデオゲームもそうです。「世界で一番ダメージを出せるようになりたい」「世界 1 位が目標」という人もいれば、「わかりやすく解説をする」ことに意義を見出している人もいます。「ストーリーを楽しんで 2 次創作をする」など、いろいろな立場がありえます。余談ですが、私の得技は「制作者が想定していなかったであろう簡便な方法を見出す」「後の世界で定跡となることを最初にやる」といったところです。大多数の人は、極めているわけではありません。いろいろな人がいるから、世界は成り立ちます。

翻って考えれば、私の人生は失敗だらけです。ゴミのような両親のもとに生まれ、中学・高校は、窃盗・傷害・中絶が多発し、自分を応援してくれた先生はうつ病で自殺未遂をし、生徒指導の教諭が教員同士の飲み会の帰りに飲酒運転で交通事故を起こし逮捕されるレベルの底辺社会でした。大学も落ちたし、大学院では学振に通らず、さらに 1 年留年もしました。数学オリンピックは全部予選落ちでした。競技プログラミングは、いつまでも実力低いままでした。無職の期間もありました。この日記の読者の人生には、私の人生よりましなところが、少なくとも 1 個はあるのではないでしょうか。ぜひそのことを、大切にしていただければと思っています。

そんな私の人生に、意味なんてないのは、私自身が一番よくわかっています。そもそも、私は、周りの人から「優秀だ」と言われたことは、嫌味を除いて、全くありません。私のことを知る人は、誰もそう思っていません。特に小学校〜大学院時代はそうです。「こんな人でも」と。「こんな人でも受かるのだから、自分はもっと」と。私も、他者からの認識は、それで別に構わないと思っています。こういう人たちから嫉妬を買うと、生きていく障害になりえます。

冒頭に書いたことに戻りますが、自分の所属組織のために仕事ができればそれでいいと思っています。