正月の記事の補足
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はじめに述べておきたいことがあります。この記事は、誰のことも攻撃する意図はないということです。この記事では、私についての仮定の話が出てきます。あくまで私のことですから、読者の方が何か感じることがあったとしても、少なくとも、自分が攻撃されている気になるのは、筋違いです。
結局は受験勉強と同じ
本題に入ります。私が学校に所属し、研究を続けて、教員として今頃 tenured になったと仮定します。給料も身分も、ある程度保証されたとします。更に、今の私と同様に、研究活動に勤務時間の 95% を使って良いと仮定します。そして、これが一番ありえない仮定ですが、私の周りの人が全員、今の私の周りの人と同様に、愉快な方々と仮定します。
それでも、私は不満を抱いていたでしょう。その理由を、書き留めます。
学校での研究の王道は、道具を修得し、得意な分野の問題を解くということです。それがどこまで拡張されるのかというと、今後研究分野の拡張は「わずか」にとどまります。私が一生学校で研究をし続けても、出せるのは実解析・微分方程式の処結果が精一杯です。この記事ではこれ以上この点について論じません。このことは、当たり前のことです。
つまり、私は、これまでも、これからも、わずかな分野に所属する「解ける問題」だけ、解き続けます。
これは、実は、受験勉強と何も変わらないのではないでしょうか。
例えば学部入試は、高校の指導要領範囲内から出題されることになっています。大学 1 年生以上の数学・物理・化学は、知っていると少しは役には立つこともあるでしょうが、基本的には問われません。しかし、分量としては、「大学 1 年生以上の数学」は「学部入試に出題される数学」の何百倍、もしかしたら 1,000 倍以上はある可能性があります。
すなわち、学部入試は、ほんの僅かの領域から集中的に出題がされています。そこに、何十年分という過去問が蓄積されています。だから、それを効率よく解けるようにするのが、受験勉強の王道です。
研究の場合は、私が問題を自由に想定しているわけではなく、私の得意な道具が私に問題を「選んでいる」。私が問題を自由に解いているわけではなく、私の得意な道具が私に問題を「解かせている」。
受験勉強では、大学の教員が作ってくれた問題を指定されて解かされる。研究活動でも、自分の得意な道具が問題を指定し、私は解かされている。何が、違うのでしょうか。
受験勉強を 10 代から続け、 30 代になっても、何も変わっていません。これを、あと 30 年もやり続けることに思いを馳せるとき、自分は、自分の人生に納得がいくでしょうか。
この矛盾に、いつしか私は気が付き、ひどく苦悩していたことでしょう。
念の為、補足しておきますが、前回も書いたとおり、私は受験勉強も学校での研究活動も、肯定する立場をとっています。
それでも受験勉強から離れたい理由
一つの策は、開き直ることです。学校での研究活動は、受験勉強と実は同じなのだと。受験勉強では、出題される問題を解けるように勉強する。研究活動は、自分の得意分野に合致する問題だけ選んで解く。それで一生いいじゃないかと。
しかし、私の大学院での研究活動を踏まえると、これは絶対合わないだろうと思います。自分の興味あることを追求していくと、自分の得意な道具を使わない結果も出てきます。そういう結果は、たとえ査読を経て論文になって対外的に認められたとしても、学校という場所では、もう評価してもらえません。研究員を続け、教員になっても、この事情は同じでしょう。というより、先に進めば進むほど、ますます、評価は、狭いものになるでしょう。
加えてもう 1 つの論点があります。それは、研究活動が受験勉強と同じであるということは、対策ができるということです。つまり、周りの人の影響が大きいということです。
受験勉強は、聡明な両親を始めとする誰かがお金を出し環境を整備し、隔離された環境で指導者が満点近く取れる解答を用意して、自分にできるようにさせてくれるというのが王道です。研究活動もこれと同じ構図になります。上述の「得意な分野」を自分で開拓する人は少数派で、たいてい、他人から与えてもらうことになります。独り立ちしたあとも、共同研究に頼り続ける。大きなグループに組み込まれる。どちらも、「自分で頑張る」要素よりも「周りの人に恵んでもらう」要素の方が大きいことは、認めなくてはなりません。
こうやって考えると、私は、受験勉強や学校での研究活動で、今後の人生を戦うべきではありません。生まれた瞬間から重いハンデキャップを背負っていることになります。そのハンデキャップは、 30 年以上生きていれば、ある程度解消されつつあります。しかし、「人種も国籍も性別も思想も、生まれも育ちも関係ない。今日から仲間です」と、入ってから 1 分後に言ってくる環境で、頑張り続けるほうが、明らかによいといえます。
自分で決める
だから、自分で決めたことを、自分でやるということが、重要なことです。そして、今年の私は、そのことに、挑戦できる立場にあります。問題を誰かが作っていてそれを解くということもなく、得意な道具に合致する課題を見つけて取り組むということもなく、誰かが私の役割を決めるということもありません。私がやるべきことを構想し、分析し、有効な手法を確かめ、修得し、道具を駆使して解決に導きます。
では、どうするのかということを、ここに書きたいところです。しかし、それは、書きたくとも、書けません。具体的に書くと、守秘義務に反することになるからです。今、私が取り組んでいることについては、おそらく一生書けません。ただし、抽象的には書くことはできるかもしれません。しかし、これも、少なくとも年末までは書かないでおきます。
代わりに、書いておきたいことがあります。
私は決めたことを私がやるということは、周りの人が何も決めないということです。そして 1 年後には、私は成功も失敗もしていることでしょう。その際、失敗した点について、心無い人は「そらみたことか!」と嘲笑し、「俺の言うことを聞いておけば失敗しなかった!」と蔑むことでしょう。
しかし、本当にそうでしょうか。先述の通り 1 年後には、私は、失敗の他に、成功もしています。確かに、その人の言うことを聞いて従えば、失敗したことの一部は回避できた可能性はあります。しかしその結果、成功したことの一部も、失敗したことに変化するでしょう。つまり、その人の言うことに従っていれば本当はよかったというためには、成功と失敗の両方に対する検証が必要です。
そのためには、実際に、自分で決めたことを自分でやってみるしかありません。そうして、成功も失敗もします。両方を検証することで、結論がでます。たしかに、失敗が成功を十分上回れば、他人の言うことを聞くべきだったということになります。しかし、成功が失敗を十分上回れば、自分の意志で自分のやることを決めることは、結果の観点からも適切だったということになります。
過去、他人に従ったとき、または、無理やり従わされてきたときには失敗し、自分の裁量で大事なことを自分で決めたときだけ、かろうじて成功してきました。自分でやることを 100% 自分で決め、成功も失敗もすることで、先に進んでいけると、考えています。