2022 年の振り返りと 2023 年の目標

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網羅していないかもしれないが、思いついたまま、適当に書きます。

2022 年の振り返り

目標を達成したかどうかを振り返ります。

  • 脳トレ、鬼トレを毎日やる。

脳トレは毎日やりました。

残念なお知らせをします。 2023 年 11 月末に、私が持っていた直前写真の世界大会記録は破られてしまいました。今後も記録更新をめざしつつ、脳トレを続けていきます。

鬼トレは、最近はほぼ毎日継続するペースに戻っています。いまのところ、鬼計算は速い 45 バック、鬼耳算は速い 34 バックです。

  • 音読を毎日する。

これもほぼ毎日やりました。相変わらず読売 KODOMO 新聞と読売中高生新聞を音読しています。

  • 新聞を毎日読む。

毎日はやれなかったかもしれませんが、毎日分を読みました。最近は 1 日 40 分くらいのペースでやっています。速読とか意識せず、普通の読み方で読んでいるので、これ以下の時間では、できないような気がしています。

  • 本を 100 冊読む。

これは途中で諦めました。今年は研究業務が忙しく、読書量自体は減ってしまうでしょう。

  • コンシューマーゲームを 1 年間で 400 時間やる。

これは、惜しいペースまで行ったものの、足りませんでした。最後の四半期が忙しかったからです。家庭用機 3 種のせっかくのサブスク費用が、たれ流しになっています。ひとまず、お正月は、『魔法使いの夜』をやりたいところです。

  • みんなで筋肉体操を週 3 回やる。

最近は週 2 回くらいになってしまっています。もう少しがんばります。

2023 年の目標

目標は、もう少しシンプルにしようと思っています。

上のものは「毎日やる」という目標が多くあります。それはそれでいいかもしれません。しかし、日課を毎日やるのは目標として宣言しなくても自然と達成されるべきものです。また、逆の視点で考えると、体調不良になると毎日の日課もできなくなります。だから、目標としては、微妙です。 1 年後には「だいたいできた」しか結末がありません。

日課は続けますが、目標は別に立てることにします。

目標

  • 目標 1:今までの人生で、一番真面目に数学をやる。
  • 目標 2:自分で決めたことに、取り組む。
  • 目標 3:有給休暇を、全てビデオゲームに充てる。

目標 1・2 について

目標 1 は、昨年末に書いたとおりです。目標 2 ともかぶりますので、ここで補足説明をします。

今までの人生で一番真面目に数学に取り組んだ時期は、学部 3 年生の勉強、中学・高校の時の大学入試問題を解く勉強、大学院の研究、という順番になります。よく振り返ってみると、これらは、私が自分で決めた内容をやっているわけではありませんでした。

誤解を恐れずに言えば、学部 3 年生の勉強は、教員が教えてくださる内容を消化するのがその目標です。カリキュラムを決めたのは、数理科学研究科の教員でした。

大学入試問題を解く勉強は、ど田舎にいた私は自分で勉強していました。しかし、入試問題を作ってくれたのは、大学の教員です。それも多分、多くの問題の作者は数理科学研究科の教員でしょう。

大学院の研究は、私の指導教員は克己的な人なので、私が結果を出すまで辛抱強く待ってくださいました1。しかしそれでも、最初から最後まで自分で決めたことをやれたかというと、そうではないでしょう。

以上は、自分で決めたことをしているわけではなかった、というのが、私が今思うことです。

ここで補足をしておきたいことがあります。以上の行動は、決して、批判の対象にはならないということです。

大学入試問題を解けるようになるために、大学入試問題を解くことは、何ら批判の対象ではありません。私も昨年、資格試験を受けましたので、試験勉強をたくさんしなければなりませんでした。

大学院で研究をするという段階でも、まずは、 1 つの技を伝承し、しばらく下請け業者をやろうとというのも、悪くはありません。近年ではそれがむしろ「王道」でしょう。それに味をしめさせて、受賞させ、出世させたはいいが、補助輪がなくなった段階で、勢いが弱まるということが、悪いのであって。

学部の勉強もそうです。数学には、他の分野よりも基礎事項が何なのかはっきりしているという特徴があります。学部でやるような簡単なことをスキップして難しいことをやろうとした結果、直後にうまくいかなくなったり、人生巡りに巡って自分に不要だと思ったことが後から必要になります。後者は、今この時期も、私が思い知っていることです。もし私が、 3 年生・ 4 年生のときに、実解析学・微分方程式論の勉強に集中していたら、今頃、途方にくれて身動きが取れなくなっています。そうならなくて、よかったと、安堵しています。

私が言いたいのは、そういう段階から、更に進んでいいのではないかということです。何をやるべきかも、自分で決めます。その解決方法も、自分で構想します。その構想を実現させるべく、自分で関連事項を調べ、ロードマップを描きます。そしてそれを実行します。

そうすることで、新しい風景が見えてくるのではないかと考えています。そのことに、気が付きました。

特に大事なのは、解決したい問題を自分で見出し、その問題を解決する方策を練るということです。

これと反対の指針では、まず自分の得意な道具があって、その道具を、時に強引に、問題にあてはめにいきます。しかしそれは、いつまでも、教えてくれる人頼みになってしまいます。結局これは、演習量だけを重視した試験勉強と同じではないでしょうか。それはもう、例えば中学入試の段階で「卒業」するべきではないでしょうか。こういうことを、意図的にどこまでもどこまでも繰り返す勢力からは、遠ざかりたいと思っています。

物事は、誰かに指導されないとダメなんだ、とよく言われます。しかし、自分で決めて行動した失敗と成功が、本人固有の実力を形作るのも事実であります。加えて言うならば、私が必要としていて期待されている成功とは、学術の世界の狭い成功ではもはやなくて、一般的な意味での成功です。確かに、自分が誰かに教えを請おうと思うと、各論的に専門家は存在するかもしれません。しかし、その人たちが、たとえ途中までであっても、私のために線路を引いてくださるということは、少なくとも現在の立場になってからというもの、ありえないことでしたし、今後もありえません。無論、協力してくださる方はたくさんいらっしゃいます。しかし、物事は、その水準まで、複雑になっています。そこは、厳しいところですし、受け入れています。

幸いなことに、現在、ある程度の身分と給与、そして老後の生活が保証されています。今後、研究開発で成功すると、更に上の段階がありますから、成功をすることは今後も大事です。しかし、研究開発で失敗しても、それを理由に人生のどん底に落とされることは、今後、まず、ありえません。これはかなりの利点になっているのだと、社外の方から指摘されて、気が付きました。その上、拘束時間が少ないということも利点として挙げられます。 1 週間の労働時間の 95% は研究開発に充てられます。

つまり、今、リスクが少なく、面白いことをやれる立場にあります。ならば、真の意味で、自分でやることを決め、それに取り組むべきです。そして、これは、よく考えると、人生初の挑戦です。そういう挑戦をしていそうで実は一生やらない、または、やっていないことに気が付かないで一生を終える、というのが、一番手堅い人生の形であるのは、よくわかっています。だが、それでも、私を取り巻くあらゆる事象が、私に、自分のやることを自分で決めろと、促しているのではないでしょうか。だから目標 1 に加えて、目標 2 を立てました。

目標 3 について

2023 年も、 400 時間くらいビデオゲームをやりたいところではあります。しかし、数字だけを目標として立てても、それを実現できるかどうかまでは、現状で計画できません。いつ忙しくなるかは、現時点では全くわからないということに、昨年度の経験から、気が付きました。ならば、数字に意味はありません。数字は、後から結果としてついてくるものです。

ですから、「有給休暇を全てビデオゲームに充てる」という形の目標にしました。これなら、手が空いた時期に実行できます。また、この目標を立てておくと、普段から、有給を取ることを意識しながら仕事ができるので、結果として、ビデオゲームの時間が増えるのではないでしょうか。もちろんこれは周りの人のご協力が必要なことですから、まず私自身が、組織運営に貢献するというのが前提です。

日課

  • 脳トレ、鬼トレをやる。
  • 日本経済新聞を読む。
    • 重大な事件が起きたときは、読売朝日毎日産経共同も買ってきて読む。
  • 読売 KODOMO 新聞と読売中高生新聞を音読する。
  • みんなで筋肉体操をやる。 (週 3 回)

これらについては、 1 年後に振り返ることにします。

  1. こういう記述をすると「見捨てられた」「関係うまくいかなかった」と言われる可能性があるので、補足しておきます。数理は、他の分野の大学院と異なり、「先生の研究室の運営に参加する」「先生の研究室に居候している」という要素は、全くありません。研究室は、教員がいるだけの部屋です。院生室も、バラバラです。それでも、確かに、学生は、誰かから指導されるのが普通です。ただし、私の指導教員は、「こいつは、自分でやるから、何かを指示するべきではない」という結論に到達したようです。論文審査の日にも、そういうことを言われました。私のことを熟慮した末、放置してくださった。これが事実です。その後の人生を考えても、優れた上席者ほど、このことに早く気が付きます。自分に自由な裁量がないとうまくいかない私自身も悪いのかもしれませんが、ともかく、こういう因果関係になっています。