未練なき人生の地点で
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もう、やり残したことはない。
終わりのないことの検討
生きる目標がほしいのなら、終わりのない事柄に取り組むのがよいだろう。
人類が歴史を紡ぐ限り、研究は永遠に終わらない。私は研究開発がとても好きで、これからももっと取り組みたいと思っている。しかし、それをやらないと死にきれないかというと、そういう気持ちにはならない。
働く意味を見失ったわけではない。会社は 1 年後の目標を立てるよう求めてくるが、私は 10 年後、5 年後、2 年半後の目標も自主的に立てている。それくらい、研究開発でやりたいことは尽きない。しかし、立派な会社だから、仮に私が今日死んだとしても成長し続けるだろう。そういう究極の意味では、死にきれないほどの未練はない。
周りの人は善良で、私が研究開発に時間を費やすことを心から喜び、環境を整え、応援してくれる。この点において、これ以上を望むことはない。
子育てはどうか。自分より長い人生を生きるだろうから、事実上終わりのないことだ。しかし、私の子どもは、私の両親の孫でもあるから、決してもうけたくはない。生まれた瞬間に十字架を背負わせることは絶対にできない。私が子どもを持つ道は、はじめから閉ざされている。だから、子育ては、したいことには含まれない。
ゲームはどうか。面白いゲームは次々と発売され、私が生きている間はずっとそうだろう。しかし『ゼルダの伝説 ティアーズ オブ ザ キングダム』『崩壊:スターレイル』『ゼンレスゾーンゼロ』を遊んで、「これらを本格的に上回るゲームをこれから先やれるのだろうか」と思ってしまう。ゲームをやり始めて 30 年以上経つが、それくらい満足している。私が今日死んでも、50 年後に死んでも、「最高だったゲーム体験」の差はあまりないのではないか。
あえて言うなら、私が毎日ずっと続けたいことは、寝ることだ。毎日寝るために、起きて活動している。寝るために、起きている時間を使いたい。
終わりのないはずのことも、私の中では終わりを迎えた。
お金を稼いでも
お金を稼ぐのは終わりのないことだ。ならば、お金を稼ぐことをゲームだと思って極めるのもよいのではないか、という考えが浮かぶ。
しかし、私は今以上に稼いでも、お金を使いきることはとてもできない。以下、この点について考えてみる。
旅行に行きたいとは思わない。休暇があるなら、自宅でゲームをしたり、「これは労働ではありません」と言いながら研究開発をしている方がずっと幸せだ。年に数回、出張で学会に行き、帰りにどこかに立ち寄るだけで大満足である。
美味しいものを食べるのは確かに好きだが、そのためにどこかに出かけたいとは思わない。宅食で十分だし、コンビニの弁当やサラダ、スーパーの惣菜もとても美味しいと思っている。たまに外食したいと思っても、本社に行けば自然とその機会は訪れる。
住居は、やろうと思えばいくらでもお金をかけられる。しかし、私が住みたい家は、豪華であることよりも落ち着いた環境を提供してくれること、閑静な住宅地にあることが重要だ。そういう意味で、使える金額には上限がある。
車にお金をかけるのはどうか。私は Forza のようなゲームの中ですら運転が下手なので、運転しない方が良い。万が一近所の子どもを事故に巻き込んでしまったらと思うと、運転する気になれない。電車やバス、タクシーを利用した方が安上がりで、車の所有欲もない。それに、近所の散歩も好きである。
本は、重要なお金の使い道だ。理系の専門書を中心に、読みきれないほど買っている。しかし、読める本の数には限りがあり、今以上に使えるわけではない。
ゲームは、実はお金のかからない趣味だ。相当頑張って機器や PC をそろえても、上限が見えている。あえて言うなら、わずかな性能向上のために PC を買い替えてもいいかもしれないが、今の PC で十分である。
会社の利益に貢献するのはとても好きだ。しかし、これ以上稼ぎたいとは少しも思わない。人生というゲームを延長する要因にはならないというのが、偽らざる感想である。
結論
もう、私の人生は終わりにしてもいいのではないか。
自ら命を絶ちたいと思っているわけではない。しかし、今日死んでも未練なく死にきれる。
未来には、最上の幸せと空白以外、何もないだろう。どんな困難も、これまで経験してきた苦労に比べれば易しいだろうから、必ず乗り越えられる。あとから振り返れば、待ち受ける困難は、空白と同じである。ならば、経験する前から、空白とみなしてよい。
何かに殺されるのは簡単だが、自分で死ぬのは難しい。