学校についてはもう書かない

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学校のことについて書くことはもうないと思う。

学校について

あえていうなら、学校の生徒(ここでは研究員も含むこととする)だった頃のことを、嫌な思い出、または、いい思い出として書くことがあるかもしれない。

学校は、差別といじめが日常的な場所だった。さすがに大学院では、明白な犯罪までは、先生も生徒もともになかったけども。今の環境では、差別もいじめもまったくない。そういうわけで、もう学校に関わることもないだろう。

少し前までは、大学や大学院は中学校や高校と違うと思っていたし、一定の愛着のようなものもあったけども、今から振り返れば、その幻想こそが誤りだったのだと、今では反省をしている。

これは必ずしも学校が悪いわけではない。学校の環境も悪かったが、私が幸せになるための場所は決して学校ではなかったというのも大きい。よく考えると、小学生の頃からずっと、学校には行きたくなかった。犯罪を犯す人に囲まれるし、差別されるし、勉強する場所でもなかったからだ。

私が学校でやる気を維持するのは不可能だった。心無い先生や生徒は、私に限らず、他者がやる気を失うのをむしろ喜んですらいた。その基本的な構造は、学校である以上、最後まで変わらなかった。そんな私が、学校の先生になったら、今のように幸せになれなかったし、人生を無駄にしていただろう。

数学や研究について

数学のことは、時々書くかもしれない。私はもともと数学の研究をスッパリやめるつもりで、学校卒業後に民間企業への就職を希望していた。そこからいろいろあって、結局、専門にもどり、数学をやる立場になったのは、どうしてなのかなと今でも不思議に思う。数学やるやらないはともかく、学校の先生にならなかったのは、幸運だった。

先生の指示のもとで勉強や研究をすすめたり、先生に気に入られるとネタやカネもらえたり、推薦でいい思いができたり、といった構造はないけども、今の場所で、地道に進めて実力を伸ばし、研究を積み重ねるのは、とても充実している。やる気に満ちている。何より、自分の仕事に、集中できている。

学校を離れても、私の人生は研究と切り離せない運命のようだ。私が望まなくても、向こうから研究がやってきて「やれ」ということになる。