数学を継続する理由

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前提

最初に言っておきたいが、私は数学の研究に未練はない。今から学振 PD や助教を目指すつもりはない。それらは、「私にとっては」生きながら自殺しているのと同じだ。あえていうなら、 MathSciNet が使えない上に、アクセス権のない論文は読めないのは困っていることである。しかし、それのために残りの人生全部と命を捨てるわけにはいかない。だが、その辺は、時間が経てば、なんとかなるのではないかと思う。

それでは、なぜ、数学を継続することになったのか。書いておきたい。

コロナウイルスの影響

ぼかしても仕方がない。 2020 年はコロナウイルスの年だとしか言いようがない。人類は感染症と戦うことを余儀なくされた。これにより、影響があったのは、余暇の過ごし方である。様々な催し物やイベントが中止になった。法律に基づき、外出を控える要請が出された。要請が解除されても、例え休日であったとしても、簡単には外出できなくなった。

休日で家にいることを強いられると、時間の過ごし方が制限される。私の趣味は、 1 にビデオゲーム、 2 にプログラミング、 3 に英語学習、そして半分以上引退した趣味では TV アニメ鑑賞がある。そうでなくても、暇なときは iPad や iPhone をみる。英語学習は例外かもしれないが、どれも程度の差はあれ、光り輝く画面を見続ける。

つまり、休日は、外出ができず、目を酷使する日になってしまった。もちろんある程度疲れると、目が疲れる趣味はできなくなる。それはすなわち、休日の途中からやることがなくなってしまうということだった。

外出ができないため、目に優しい余暇の過ごし方を見つける必要があった。人類史が、こんな風になるとは、思わなかった。

数学は紙でやる

その点、数学は、光り輝く画面を見つめる必要がない。本や論文は、紙の方が読みやすいから、そもそも紙で入手する。そして多くの時間を、紙の上で計算をすることに費やす。そしてそれより多くの時間を、目を閉じたり、遠くを適当に見ながら、頭の中で思考することに費やす。

つまり、数学をやり続ける時間は、画面から目を離していられる。だから、休日が数学をやる時間になることは、私にとっては自然なことであった。

体力がつき、毎日数学がやれるようになった

突然だが、 2020 年で、数学に一番良い影響があったのは、リングフィットアドベンチャーであるように思う。

これは元々、外出に規制が敷かれる現状で、運動不足を解消するために購入したものである。私は勤勉でないので、普通なら買ってもすぐに放り出す。しかし、これほど外出規制が激しいと、毎日運動するだろうと思っていた。

リングフィットの影響は凄かった。明らかに、疲れなくなった。元々私がどれほど体力がなかったのかよく実感できた。奇妙なことだが、外出規制が敷かれたことにより、効果的に運動するようになり、体力が増加したことになる。

リングフィットがすごいというよりは、私が今までほとんど運動してこなかったことが悪かった。そのため、今までは、毎日数学をやることはできなかった。 20 代後半になってから、大抵、すぐに疲れていた。体力回復まで時間がかかっていた。しかし今、私は数学を毎日やれるようになった。

毎日数学をやるメリット

その今だから実感していることだが、他人に自慢したくなるような長い時間をかけて数学をやることは、効果的な勉強法ではない。地味かもしれないが、毎日少しでも数学をやることが、効果的である。

忙しいと 1 日に数学に割ける時間は、わずかかもしれない。それでも、数学を毎日やっていれば、昨日やったことを少しでも復習することはできる。数学は、定義や定理、そして証明を正確に覚えることが、極めて重要な作業である。私は趣味で英語の勉強もするが、暗記のコツは繰り返しだと実感する。その意味で、わずかな時間の復習は記憶定着に確実に効果がある。たとえ丸暗記でないにしても、そうだ。そして、それだけではない。翌日に数学をやる時間が確保できたとしよう。すると、前にやった内容を思い出すために使う時間が減る。よって効果的に先に進めるようになる。

私見では、平日は雑務に奔走休日に 10 時間勉強するより、毎日平均 1 時間ずつ勉強する方が、ずっと効果的であるように思う。確かに前者の方が一気に進める時間が多いだろう。しかし、どれだけ爽快感があるかより、どれだけ身につくかが重要である。昨日サボったとしたら、記憶を定着させるためにあるはずだった「昨日」は戻ってこない。

もちろん、例外はある論文を完成させる手前になると、かなり多くの計算をじっくり時間をかけてやる必要がある。この場合は、区切りは少ない方が良いと思う。しかしそれは全体の工程としてはごく一部といえる。

出口戦略

仮に、長い努力の末に、私は論文を書いたとする。どんな出来であるかは、未来のことであるから、わからない。それ以上に、それがどんな評価を受け、どんな風に影響を与えるか。それはやっぱり、わからない。

ただ、数学の世界は、最後には公平な世界であるとも感じた。結果が出れば、それを使う人が地球上にはいる。エライ人から推されていない無名な学生が自分のアイデアで仕上げた論文も、しっかり読んでジャッジいる人はいる。

別に私は周りの人にチヤホヤされたいから数学をやっているわけではない。自分の論文を査読する人と引用する人以外の全員に無視されても構わない。何より、私の休み時間の過ごし方を決めるのは、私だ。