言語にまつわる論争が起こるたびに思うこと

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ゲーム機ハード戦争に似ている

例えば昨日書いたような、言語についての incident が起こるたびに思うんだけど、少し前まであったゲーム機ハード戦争に近いなと思う。

プレイヤーから見たゲーム機ハード戦争は、全く下火になりつつある。最近はスマホゲーとコンシューマーはそもそも最初から住み分けされている。また、クロスプラットフォームも盛んだ。特に日本国内のソフトメーカーのほとんどは Nintendo Switch 用を超えた大規模ゲームを開発できる体力がない。ゆえに大抵のコンシューマーゲームはクロスプラットフォームである。最近ではクラウドも取り入れられつつある。そんな状況ではハード戦争などということは沈静化、起きてすらいないとも言える。

ただ言語に関する incident が起きるたびに、彼方昔のハード戦争の構図に似ているなと思うので、その知見が活かせるのではないかと思う。以下では過去の知恵を書く。

ゲーム機ハード戦争に対する大抵のビデオゲーム愛好家の立場はまず 「全部のハード持っているから関係ない」 だった。全部持っているならどのハードでどのゲームが出ようが関係ない。プレイする。当たり前である。しかし、プログラミング言語の場合、この世の全ての言語を理解することはできないだろうからこの解決策は使えない。

しかし、次善の解決策は有効だと思う。それは「ハードとあなたは原理的には紐付いていない」である。これと同じで、 自分の好きな言語に対して何か嫌な言明を見たとしても、自分と関係はないな、自分を念頭に置いて攻撃しているわけでないなと思えるかがポイントだ と思う。

反論する前に

後者は反駁を述べたくなる人に対して慎重な立場を気付かせると思う。それは、いまから反駁する相手は、実は自分の好きな言語の愛用者なのではないかという可能性である。

例えば、私のことをこの記事の読者がどう捉えているのかは知ったことではないが、ほんの少し日記を調べれば、私が Ruby の愛用者であるとすぐわかると思う。 計算数学出席管理システムは Rails だし AtCoder への自作自動提出機能は Ruby で Selenium 動かしている河東セミナーニュース bot はソースコードも公開しているが全部 Ruby である。 AtCoder も Ruby で提出している答案は 200 件以上ある

というか私が一応わかる言語は Ruby と C++ しかない。あとは Hello World の記述の仕方も覚えていない。

その上で、昨日こちらの記事を見かけた。

確かに私は Ruby 愛好者としては雑魚なのかもしれないが、愛用者であるので、少なくともこの記事は私に対して書かれたものではないなと思う。本当に、善意も悪意もなく、ただそう思う。そして多分、実際そうなのであろうと推測する。ただ、

問題をACしたいなら速い言語を使うべきという主張は「正論」です。ド正論です。正論だからこそ言いたくなってしまうのかもしれませんね。

あたりは、私が該当しそうなことをごく最近行なっている (Twitter に書いたことをまとめ直したのが日記の記事である)。この記事は私のことも念頭に置かれて書かれた可能性はあるのかなと思う。

ただし、正確には、私が「主張」していることは、他人に「問題をACしたいなら速い言語を使うべき」と言いたいのではなく、 自分は競技プログラミングをやるために C++11 を学んだという事実を述べている のであるのだが。他人に C++ をオススメしないように、注意深く記述をした。意識付いたときからゲームハード戦争の経験をしてきた私にとっては、そのような主張を他人に対してするのが危険であることは、染み付いている。

言いたいことは以上で終わりである。あとは補足である。

ついでに補足

私は自閉症スペクトラムであるから、人の気持ちを推し量ることはできない。

スクリプト言語を使っているのはあなたと同じ競プロerであり人間です。そのことを忘れないでください。

たかがTwitter、それなりの節度を持って好きなことを書けば良いと思います。ここで書いたことを辞めてくれと強制することもしないしできません。ただ、その言語を使っている当事者たちはそれを見てどう感じているのか、よかったら一度考えてみてください。私はつらいです。

のような言動をなさる方は、立派な方から下品な方まで含めて、もちろん私の人生でたくさん出会ってきた。 もし仮に このような主張を 私に対して 求められたとしても、正直に言って私が対応するのはかなり厳しい。私が何をしたらこのような要求をしてくださる人に満足していただけるのかわからない。善意も悪意もなく、ただ、わからない。あえていうなら、一般論として Twitter で嫌な表現があったなら、見なければいいだけな話なのでは、とは思う。

そこを求めてくる人には、私と距離を置いてもらうしかない。そうでない、私を受け入れてくれる人と良好な関係を築くべきだというのが、私のかかった専門医とカウンセラーの全員共通した意見である。

私は専門医ではないので詳しくは先生に聞いて欲しいが、もともと自閉症スペクトラムは障害ではなかった。脳の構造が違うだけで、ゆえに、社会ではただ役割が違うだけだった。我々は新しい知見を生み出し技術を改良するのが仕事だった。その知見を生かし集団で成功をおさめるのは「正常者」の仕事であった。

しかし現代の日本社会の産業構造が入れ替わり、組織化が進み、我々は部品として要らなくなった。だから我々が「障害者」になった。

残念ながら、現代日本の少なくない数の構成員は、我々を排除しようとしている。アカデミアも完全にそちらの方に舵を切っているのは一番近くで見ているのでわかる。私は求職中であるが、日系企業はほぼ絶望的なのではないかと思う。現場の人は一緒に働きたいと言ってくださることが多いが、書類と役員面接で落とされるのは、もはややる前からわかりつつある。私は、日本の税金を多く使い、教育を最後まで受けた人間なのだが、肝心の日本社会が私を排除・拒絶するというならば仕方がない。外資系企業や海外で奉職するしかないと覚悟を決めつつある。

それでも「人の気持ちを考えろ」のように言いたくなるかもしれない。もちろん結構。私は人の意見を変えることはできない。しかし、例えば、本にはこう書かれている。

発達障害のある人の困難さを理解するために、多数派と少数派が逆になった場合を想像してみましょう。「終業時刻になったら即帰宅」と言われたり、気をつかって話をすると「あいまいな表現では趣旨が不明だ」と叱責されたり、「チームワークなど不要」と合理性ばかり求められたら……。どうですか、彼らの生きづらさが理解できるでしょう。 ー 市橋 秀夫 (監修)『大人の発達障害』

別に私は「生きづら」いとまでは思ってないですし、「理解」してもらえるとは思ってないですけども。

今はセクシャル・マイノリティーの方が認められつつある。昔は攻撃対象であり、日本社会は完全に拒絶していたのだが、日本は変わりつつある。いつの日か、我々自閉症スペクトラムの人間も理解され、普通に受け入れられるようになるだろう、と楽観視している。とは言っても私はそれまで、手段を選ばず生きていかないといけない。理解してもらえない人の意見を変えようとするのではなく、そうでない人と良好な関係を築いていこうと思う。