受験生は試験で点数を取れ

更新日時:

この記事は、いわゆる受験生向けに書いています。 もう受験生を終えた人は、この記事を読むのは時間の無駄です。 1 秒でも惜しんで自分の仕事をするなり、休んで英気を養うなり、暇なら英単語を覚えるなりしなさい。私の考えに賛同できない箇所があったとしてもいちいち教えていただかなくて結構です。自分の信じる道を行きなさい。

私が大学を離れて放言できる期間はあと少しになった。書きたいことはたくさんあるけど、最後に書くことはこれにしようと思う。「受験生は試験で点数を取りなさい。安心してそのための勉強に励みなさい」ということである。

この記事を書く目的

この記事を書く目的は、受験生が安心して受験勉強に励み、少なくとも受験生の期間は安心して点数を取ることを追求してもらうことである。

私は幸か不幸か、自分がそう望んだわけではないけど、日本の試験システムの頂点を経由してきた。日本のシステムは残酷で、たくさんの敗者を生み出す。東大の場合は受かる人間の 2 倍の人間を毎年不合格にする。私も理科一類は不合格になった。

帰結として、東大生はそれだけで嫉妬の的になる。私はその最も矢面に立ってきたことになる。この 10 年間、一部の人から謂れなき中傷を受けてきた。曰く「点数が取るのがうまいだけ」「受験勉強は終わってしまえばどうでもよくなるからこだわるのは無駄」「予備校と大学は違う」「そういうのは立派な研究者を育てることに繋がりません」などなど。

私はこういう人たちの「正体」を見透かすだけの知恵がある。ゆえに、かわいそうに、と思うだけで済む。

しかし、近年、時折こういう人たちに受験生が感化されているのを見る。これは悪影響と言えると思う。そこで以下では、

  • 受験生が点数を取ることは極めて健全であるから、自信を持って点数を取るための勉強をしてほしいと言いたい
  • そこから逃げるとどうなるか、どういう「大人」になってしまうかを悪い例として示したい

と思う。私が今も責任を持って言えるのは数学と英語だけだから、そこに絞って書くが、国語や理科や地歴公民のどの教科も趣旨は同じであろう。

数学の場合

まず数学の場合から書きたいと思う。

数学の筆記試験の妥当性

数学は筆記試験をしてその結果で合否を決めるというのが極めて健全な科目である。理系として数学がわかっているということは、専門家としての音楽ができるということに近いと思う。私は音楽については無知であるが、東京藝術大学の入試を見ることがある。私が感じたことは、

  • クラシック音楽の理論がわかっている
  • 実技試験で実演ができる

の両方が試されているということである。

数学の場合もこの 2 つは両輪のようなものである。まず講義で示される定義・定理・証明はよく頭の中に入っている必要がある。前者に相当する。そしてそれらを具体例で計算して、さらによい理解に到達する必要がある。これは後者に相当する。点数を取るために勉強することで、数学がよく理解できるようになるのだから、いいことに決まっている。

そして数学力を試すためには、試験で問題を解かせるのが一番わかりやすいのは論を俟たないだろう。特に、ほぼ完全な客観性が担保されているという点は心強い。大学院以降は試験でなくてレポートになるが、大学院レベルになると試験時間がものすごい時間(数日単位)になるので、レポートにしているのだろうと理解している。

試験をされた側にも merit が大きい。まず試験に向けて勉強することで、理論に立ち返り、具体例で計算する機会が与えられる。期末試験の場合は、重要なポイントを聞いてくるから、そこでできなかったことを復習することでさらに良い理解に到達する。

学部入試は時間が短い

しかし、現状の学部数学の入試は、確かにうまくいっていない側面もある。それは制限時間があまりにも短すぎるということである。 150 分で 6 問も解かされるのである。

これは数学をやっている人間からすると想像を絶するほど短い試験である。参考までに、院試だと専門科目 B では 4 時間で 3 問を解かされる、しかも 18 問程度の中から好きに選択して良いのである。また合格ラインは、一説には 1 問正解で十分とも言われる(専門科目 A の点数にもよるが)。しかしそれでも一発勝負だから、うまく試験できているかわからないと言われる。

学部入試の話に戻ると、時間があまりにも短すぎるので、受験生としては、試験中に自分の解ける問題だけまず解いて、残りの問題は試験中には放棄する他あるまい。それ以外に何をしろというのか、逆に聞きたい。

10 年以上前、私が河合塾で木村先生から学部入試前の最後に言われたことは以下の通りであった。

高橋君はたとえ理科三類を受けたとしても合格すると太鼓判を押せる。ただしテスト中に君は面白い問題を解こうとする。テスト演習でも、一番易しい問題をとかない事も多かった。試験中は、易しい問題をまず解きなさい。 難しくて面白い問題は、試験が終わってからゆっくり考えればいいんだ。

そして、私が受けた 2009 年度の数学は、一部で言われているには東大が戦後出した問題の中で一番難しいセットだった。その証拠に、鉄緑会の問題集には、年度別分析にも発想力や計算力や思考力のいずれにも大きなチャートが書かれている。当時はゆとり教育とかが言われていた時代だったから、そのメッセージもあって難しかったのだろう。

具体的に言うと以下の通り。第 1 問は誘導の意味がわかりづらい整数問題の超難問、第 2 問はある行列の極限、第 3 問は一番易しいが確率の問題で答えが出ても正解かどうかが自信を持てない。第 4 問は体積を「評価する」必要がある高校数学では馴染みづらい難問、第 5 問はこれも解析学の評価の問題、そして第 6 問は、正三角形の中でボールを打ち出す全く見たことのない問題であった。

私は第 6 問を見たとき、木村先生のアドバイスを思い出して試験中一秒も考えないことにした。残りの 5 問について考えた。第 3 問と第 2 問を解いて、あとは途中までしかできなかった。「残りの問題は試験が終わってからゆっくり考えよう。明日は理科と英語の試験だ」と思いながら解答用紙を提出した。

今から考えると、木村先生のアドバイスは極めて妥当なアドバイスだったと思う。このアドバイスのどこをどのように批判できるというのか。私の行動のどこが間違っていたと言えるのか。嫉妬心にかられて何か言いたいことがあるなら言ってみろ、と言いたい。

数学の本来の姿

私が思うに、受験生の大学入学前の数学の勉強時間は、どんなに少なく見積もっても 1000 時間を超えている。つまり、普通の数学者が 1 年くらいで数学に割く時間である。その output にかかる時間つまり論文を書く時間は、まちまちだがあえて目安を述べると、通常 200 時間/本くらいである。

そこを 150 分で 6 問、つまり 1 問あたり 25 分というのは、桁違いに短すぎると言えるだろう。受験生は解ける問題を選んで点数をできるだけ取るのが精一杯で、あと何もできない。そして別にそれでいいと思う。難しい問題は、大学に入学、大学院に入学してから必死に格闘することになるのだから。

たった 150 分の試験での対応を見て「こいつはこういう人間だ」と即断するのは危険である。それはまるで、うまく表現できないけど、「大震災が起きた時に、とっさにあなたはどうやって行動しますか」と聞いているようなものである。その一瞬の出来事でどのように行動するかで生死は変わる。実際現実世界では痛ましい被害は起きている。しかし、非常事態での行動の成否の評価で、その後の人生を評価できるとは恐ろしくて言えない。そう、大学入試の数学は、非常事態のようなものである。

点数で決めない世界になると何が起きているか

ここを見ているのは受験生であるから、試験で点数を決める世界でなくてってくると、今度は何が起きてくるのか、参考までに書いておきたいと思う。一言で言えば、茶番が起きている。受験生向けに、だいたい何がおきているか順番に述べる。

まず研究者は論文を読むと思っているかもしれないが、そこからして間違いである。大抵は読まない。数学の論文は、私の場合 1 本あたり 200 時間かけて書くものであるが、せっかく生産しても、最初から最後まで読んでくれる人は地球上で読んでくれる人は 10 人もいないだろうと思う。

ではどうするかというと、読まないで評価をすることになる。情けない数学者だと、本数と雑誌のランキングで評価する。自分で読まないで、他人の業績を評価する。自分で読まないのであれば、評価すらしないほうがいいのに。

そしてそれだけならまだ、自分で論文を生産する余地があっていいのだけど、実際は自分の力で論文を生産することすらほとんどない。特に今の時代は修士課程から競争という名前がついた茶番が始まっている。当然修士課程では勉強中の身であるから、いかに他力を使うかがポイントになってくる。例えばエライ先生が勧めてくださった研究テーマをやる、今流行りのテーマをやる、などである。

私は他人のことなんて知ったことではないのだが、この日記に登場する谷村君によると「学部時代から焦って最先端のことをやろうとする人は、だいたい general-nonsense なことをやりたがる」と言っていた。思うに、今流行りのテーマをやると、その重要性が確定していない段階でやるのだから、そうなりやすい。

さらに言えば、本当にこのことを受験生に伝えるのは気の毒なのだが、この国の数学者の価値は数学論文の生産では決まらない。数ページの研究計画書をうまくかけるか、エライ先生にいい推薦状を書いてもらえるのかで決まってしまう。その人に研究費が傾斜配分される。

私は何でもかんでもペーパー試験で決めるのがいいとまでは思っていない。だけどこの現状を、日々点数を取るために必死に勉強している受験生に胸を張って誇れますか、ましてや「点数を取るために勉強するのは時間の無駄」などと言えますか、色々な人に聞きたい。

まとめると、私は、特に数学の入試は、時間制約もあって特殊な測り方をするから、それに過剰適応するのはやむを得まいと思っている。それが一概に悪いことでもない。ただ悪い側面もないわけではないから、それを本気で変えたければそれこそ別の試験時間や問題を出した試験をするべきだと言える。「大学入試では簡単な問題を解くように指導される…」といってただ受験生に主導権を取るのは、恥ずかしいと思う。

英語の場合

次は英語の場合を書こうと思う。

大学入試の英語は最もうまくいっている試験

近年大学入試改革が叫ばれて、くだらない試験の点数をセンター試験の代わりに使用するように一部の人間が陰謀を持って行動しているのは、よく知られる通りである。しかし現状のセンター試験と東大の二次試験は、長い時間を経て形式が洗練され、これ以上もう追求できないのではないか、あとこれのマイナーチェンジ版で何が悪いんだと思うくらいよくできている。

先ほど書いたように、数学の試験は改善の余地があると思う。しかし英語は相当改善の余地がない。ある程度英語力が高い人がセンター試験と東大の学部入試を見ると、その凄まじい完成度には感心する。

英語力だけを測っているわけではない

その中でも特筆するべきことは、英語の試験では英語だけではなく、大学に入ってから勉強や研究をするために必要となる鍵となる能力を測っているということである。大学入試が大学入試である所以である。これを英語力だけを測る(測っているかも怪しい)適当な民間試験で代替するなどそもそも不可能である。

センター試験は、第 3 問は要旨要約のようなもの、第 6 問 B では段落要約が定着した。東大だと 1A は要旨要約、 1B は段落整序、 2A は課題英作文である。特に東大の問題は本格的なものであり、高得点を取ろうとすると非常に大変であることが知られる。

参考までに私の経験を述べると、大学入学後は英語力そのものよりも、これらの能力が非常に役に立った。妥当な表現で的確な要約ができるかは研究をやる上で生死に直結する。どの順番でものを述べるかも考える必要があるし、要旨と関係ない余計なことを述べないのも重要である。河合塾では妥当な答案を作成するために徹底的なトレーニングを受けたのであるが、それは「エライ人に受けるように行動する」「キャッチーなプレゼンをする」よりずっと本質的なトレーニングだったと思う。

超高得点を取ろうとすると磨かれる

確かにセンター試験と東大学部入試の英語は、難易度はそこまで高くない。特に東大は語彙力に無理のない制限がかかっており、出典をリライトしていることが知られる。

しかし高得点を取るのはどちらも難しい。東進によると東大合格者のセンター試験のここ 10 年の平均点は 190 点に近い。そして東大の場合最高レベルの受験生は 100 点を超える。そこで 190-100 を目標に勉強することになる。これは高得点を超えたいわば「超高得点」であり、これが本当に難しい。

センター試験の英語筆記は易しいと言われているが、 190 点を取るには相当高いレベルの読解力が必要である。英語力はもちろんだが、それ以上に選択肢を本文と合わせてしっかり照合できるかが重要である。東大の場合も、あの短い時間で満点に近い要約・英作文・和訳を答えないといけない。これがいかに本質的なトレーニングであるのか、大学院に最後まで通ってしまった私は実感している。

この前も書いたが、今は SNS 時代である。人を怒らせるとカネが発生するメソッドは完璧に完成してしまった。そこで行われることは、あえて正確な読解をしないということである。つまりセンター試験に例えていうなら、不正解の選択肢をあえて生産するようなものである。アホなんじゃないのかと思う。

ついでに言うと、そういう人が大学教員をやっていたりするのだから本当に赤面の極みである。その人に指導される学生さんが気の毒で仕方ない。将来そうならないためにも、英語の勉強をして、良質な大学入試で高得点を取るための妥当な訓練を積むことに、受験生には迷いを持って欲しくない。

結論

「点数を取ればいい」まともなシステム

さて今まで見てきたように、試験で点数を取ることは猛烈に妥当なことであるし、そのために準備をすることは、若い受験生に正しい指針を与えている。過去問はいい問題だけと限らないが大抵は良質な教材として教育に再利用される。ついでに言うと、今回は触れなかったが、試験一発で決めてくれることにより、生まれ育ちに関係なく大学に入学できる、そうそれこそ、どうしようもない底辺出身の私のように。

これほどまともなシステムは、他の方法で作れるのだろうか? 高校時代のボランティア活動経験やクラブ経験、学校の成績を重視して、適当な推薦状と、ザルみたいなマーク式試験で大学入学者を決める国のようなシステムがいいというのか? 民間試験には莫大な受験料がかかるが、その点、本屋に行けばセンター試験の過去問 28 回分が詳しい解説付きで 1,000 円で手に入ることの何が不満なのか?

私は東大に一度不合格になった人間だが、それでも今の受験システムには感謝している。点数だけ取ればよかったから、教育が呆れるほどゴミでも、私が受験勉強し続ければ最終的に東大に入ってさらに高度な教育を受けられた。逆にどれだけいい家に生まれても、本人の学力が高くないと東大は入学を許可してくれない。万が一入ってからも不幸になるだけの日々が待っている。

どうして受験勉強を非難する「大人」がいるのか

私が見るところ、簡単に言えば彼らの虚栄心である。最初に書いた通り、この国の受験システムは残酷である。シビアである。不合格になると辛い。人生をかけて復讐してやろうと言う気持ちになるのも、わからんでもない。私も不合格になったのだから。

点数をとる勉強を非難する大人は、立派な地位についている人もいる。人生はペーパー試験だけではないからである。別の能力が高ければ、立派な地位につくこともできる。

しかし嫉妬心と虚栄心が一度芽生えてしまうと、永遠に癒えない、本人が自分を受け入れない限り。確かに試験の点数だけで決めてくれる世界は、遅くとも大学院入試で終わる。そこから先は、良くも悪くも別のルールで動いている。しかし嫉妬心や虚栄心は、どれほど「新しいルール」に順応して、過剰適応して「成功」しても、癒えないのだよ。そのはけ口として、受験生を使用しないで欲しいと思う。

以下では情けない大人の例を挙げる。受験勉強を真面目にやって、その価値をわかるようになるまで学力をあげないと、こうなる。こうなってはいけない。

私は就職活動中であるが、立派な会社の社長さんがこの私に学歴が高すぎると嫉妬する場面も見た。浪人も留年もしたこの私に。ペーパー試験や数学にそんなに恨みがあるのかと思った。

数学のアカデミアで立派な業績を出していると自慢していた人が「日本の入試制度は点数を取るために簡単な問題を解くように指導される。しかしそういうのでは研究者として大成はできない」と言いながら「指導教員に研究テーマを紹介してもらうのが大事だ」「いい論文から派生してできた論文は、当然注目度も高くなるから、いいジャーナルに載る」などと数学と何にも関係ないことを言っているのを見て愕然とした。競争社会と言う名の茶番に過剰適応することが、ここまでできてしまうのかと思った。数学がご専門なら、流行り廃りに関係なく自分で研究するものでしょう。年間の生産性が低すぎるのはダメだけど、研究は自分の意思でやらないと、先生のお手伝いと変わりない。

東大の外では東大がどのように見られているのかはまぁ大体わかる。これについては具体例は差し控えるが、受験生には悔いの残らないように受験勉強してほしいと思う。そして受験勉強よりも激しく大学で勉強し、大学院で研究してほしいと思う。

受験生に伝えたいこと

受験生の方はとにかく迷うことなく点数を取れ、ということが言いたい。私が大学に所属していない今だから、包み隠さず言えることである。

私はもう学生として通うことはできないのだが、東大はいい大学・大学院でした。自分が東大を目指した理由は、本当に不遜なことですが「自分より優秀な人間に出会いたい」でした。そしてそれはきちんと叶いました。穂坂さんのような規格外のすごい人がいました。その幸運に感謝しています。

東大に来ると、どれだけ勉強しても許してもらえる、楽しい日々が待っていますよ。そのためにも、健全な受験勉強に安心して励んでください。