要旨要約問題の「解法」について

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私はこの前から「東大英語要旨要約問題の私の解答」というのを書いている。要約問題については、画一的な方法論はない。だから具体的な過去問に対して解答を示すことにしている。もちろん私はただ数学を専攻しただけだから、英語の訓練を積んでいない。そもそも先生になるためには英語力が足りていない。特に受験生の指導は絶対できない。無保証である。

それでも、これを書いているのは、巷には、びっくりするくらい、満点解答と程遠い「模範解答」が多いからである。まずそこに驚いたということを書きたい。

「模範解答」に満点答案が少ない理由

私が受験生の頃に比べて「東大英語」はすごく市民権を得たらしく、多分一定以上売れるからであろう、たくさん本が並んでいる。当然 1A の要旨要約問題も解説されているのだが、びっくりするくらい満点答案がないのに驚いてしまった。

おそらくこれには 2 つ理由があるからだろうと思う。

まず、要旨要約問題は、英語が読めてそれを読解するだけではなく、その要旨を日本語で要約するところに主な難点がある。これは単に英語力が高いだけで対処できるものではない。かつての私がそうだったように、受験生は優れた指導を頼りに対処ができるようになるが、指導者側には猛烈な訓練が求められる。単に英語力を高めるだけではなく、学術の厳しい訓練を通して、結果として要約ができるようになる。

例えば河合塾の場合は東大英語チームに 20 人以上の人員を割いて分析しているが、その中には博士課程に行き大学講師までやって修行を積んだ人たちも多くいる。個人の力の上に集合知まで使って対策しているのである。そもそも出題者はもっと人員を割いて問題を準備し採点をしている。そのようなレベルである。

もう 1 つの理由は、要旨要約問題を東大の 1A の形で出題している大学が極めて少ないからである。つまりこれをわずかな時間内にできるように訓練することは、東大に特化して指導を受けるということである。その商売が成り立つのは、河合塾本郷校や鉄緑会程度であろう。

つまり「普通の英語の先生」は、もともと要旨要約問題を分析したり、問題を解いたりはしていないのだろう。下手をすると東大受験生よりも過去問を解いていないかもしれないし、ましてや自分自身が要旨要約の指導を受けたことがないのであろう。その人が 1A の要約問題に取り組んだところで、英語の読解は完璧でも、要約する部分でおかしいことをやっていたりもする。

そして、よく出てくる言葉は「東大の英語は簡単だ」である。確かに東大の問題は語彙が平易になるようにリライトされている。しかし「簡単だ」と言いながらずさんな答案しか書けていないのである。どのように私がそれを見ているのか、想像に足りるだろう。

よくある誤解について

「筆者の言いたいこと」について

要約問題は、要旨をまとめる問題である。そしてそれが制限時間と字数制限の範囲内できちんとできるように、問題文が調整されている。 1A の問題は特に、問題を成立させるために激しく原文をリライトされていることが知られる。

うまく例える言葉がないのであるが、満点の答案は、元の文のちょうどよい縮図になっている。当たり前だが、英語の問題は、英語の理解力を見る問題である。筆者の言っていることを誤読せず、妥当な読解ができているかを、様々な設問形式を使って測っている。

であるから「筆者の一番いいたいこと」を「書く」問題ではない。そもそも筆者がいて、それをリライトして問題文が出ている。その文で誰が「筆者」なのかはともかく、 筆者が言いたいことは、問題文そのものである。そこに「雑音」はあるわけがない。

巷の問題集を見て私が一番多く観測したのは「要約文=問題文で『筆者が言いたいこと』である文を探してつぎはぎして、適当に膨らませたもの」というものである。そもそもこれでは、要約文になるわけがない。 要約は全体の縮図であると述べた。どうしてある一部分の和訳が要約文になるのであろうか? 過去問をやればわかる通り、問題文のある一部分の和訳が要約文になるほど、そうそう都合よくはなってはいない。

確かにこれが文意の核であるいうのは、最終的な分析結果として出てくるのであるが、しかしそれだけを書けばいいという訳ではない。どこまで書けばいいのかは、字数が決めている。字数に合うように、解答を書く。

思うに、字数は出題者からのメッセージである。先ほどから繰り返している通り、東大の要約問題は出題者が原文をリライトしている。つまりあの問題は、完全に箱庭なのである。どうして箱庭を作っているかというと、試験本番で、読解から解答完成まで 10 分程度でできるようにするためである。 問題文も、字数も、出題者の支配下にあるのだから、受験生がやるべきことは、正確な読解と、字数に合わせた要約文の完成である。

具体例について

よくある誤った指導に「具体例は要約文に入れてはいけない」というものがある。

これも一概には言えない。 具体例を通して筆者が主張したいことを丁寧に説明している問題文もある。この場合は、要約文でも具体例を的確に要約して、筆者の主張を補強する必要がある。

例えば 2014 年は、階段が磨耗していく例を挙げて、環境問題に 1 人 1 人が自覚的である必要があるという問題文であった。 2013 年の場合は、クモの糸の構造が人間の構築物を強くするのに応用されうるという問題文であった。どちらも、例に触れないわけにはいかない。かといって 2015 年度のように、問題文の例をそのまま書くわけにもいかない場合もある。この場合は、以下で述べる通り自分で一般化をする必要があるか、または別の場所で論旨が的確に述べられているなら字数を見てカットする必要がある。

ディスコースマーカーについて

よくある誤った指導に「ディスコースマーカーや指示語が、筆者の言いたいことを教えてくれる。そこを中心に要約文を書くんだ」というものがある。あるいは「要約問題にはパターンがある」という人もいる。

ディスコースマーカーや指示語に頼る「画一的な方法論」は非常に危険なのでやめた方がいい。東大の問題はディスコースマーカーや指示語で安直に正解に至ることを排除するよう、徹底的に罠を仕組んでいるからである。

特に 1B の問題をやるとそれがよくわかる。 1B は適文補充や段落整序問題であるが、 10 問が出題される東大英語の問題の中で大抵毎年最も簡単な問題である。伝統的に、ダミーの選択肢が含まれている。ダミーの選択肢の内容は、普通に読解すると半分笑ってしまうような関係のない内容が書かれている。全く受験生を混乱させる意図がないのである。それでもどうして伝統的にダミーを入れているのかと考えるに、文意を考えず、ディスコースマーカーや指示語で安直に解答に至ることを防ぎたいということだと思う。確かにディスコースマーカーや指示語を重視しすぎると、ダミーの選択肢を選んでしまいかねない。

1A は、あくまで正確な読解をして、理性をもって問題文を分析し、ポイントを挙げ、それを要約文に的確に盛り込む問題である。それを安直で画一的な方法論でごまかすことには無理がある。

一般化はどこまで可能か

満点答案に至るためには、一般化がどこまで可能かということを大抵毎年考えることになる。

要約文は縮図であるから、具体例を挙げてはいけないということではない。具体例に言及した方がいい場合も確かにある。しかし、要旨が同じ、かつ、具体例が散逸していて字数制限内で書ききれないということもある。この場合、具体例を一般化した日本語を自分で考え、それを持って要約とするのは、極めて自然である。

一般化が必要な場合、日本語は自分で考えることになる。ここで大事なのは、妥当な日本語の選択である。 一般化が必要な場合、それぞれの具体例から導かれる、妥当な一般化を自分で考える必要がある。要旨を落としてはいけないし、言い過ぎてもいけない。どこまで言って良いか、どこまでパラフレーズして良いかは、毎回頭を使って考える必要がある。

出来上がった要約文が妥当かどうか

要約文は、完成品である。出荷物は納品される状態でないといけない。それ自体を読んで、完成形でないといけない。「問題文に書いてある重要なことが書かれていない」や「問題文に書かれていないことが書いてある」に関しては全くお話にならない。

要約問題は、問題文を削ることを競う問題ではない。要約文自体は、それ自体で完成していないといけないし、さらに要約文と問題文が同じ論旨を述べていないといけない。

特に「要約文を読んだだけだと、どうしてこの結論が出るかがわからない。しかし問題文には、理由が書いてある」という答案は、理由を落としている。理由を盛り込まないと満点に至らない。

とは言っても、字数制限が非常に厳しいので、誤読の恐れなどには必要以上に気を遣う必要はない。日本語の特性を利用し、うまく主語を転換したり、硬い言葉を使って字数を節約したり、論旨が変わらない程度に言及する順序を入れ替えるのは問題ない。また、試験場で漢字が書けない場合はパラフレーズして良い。例えば「親からの虐待」と書けなければ「親からの暴力」と書けば十分であろう。下にも書く通り、字数制限が非常に厳しいことは採点者は十分わかっている。要約問題は主観を排除して解答する問題であるから、採点者も要約文を悪意に解釈することはありえない。英語の採点現場は見たことないが、東大の入試はトリプルチェックをして採点するのが通例なので、問題文を十分理解したまともな採点者が妥当な解釈をしてくれることは期待して良い。わずか 10 分で解答するのである。ここを必要以上に厳しく指導することにはなんの意味もない。

字数制限がとにかく厳しい

東大の 1A で私が(多分河合塾生も河合塾の先生方も)いつも悩まされるのが、字数制限である。字数制限内でポイントを全て盛り込めている答案を書くのは本当に難しい。

当たり前だが、余計なことを書いている余裕は一切ない。それどころか、ポイントをうまく絞りきったとしても、それを的確で妥当な短い日本語で書き切ってようやく要約文が完成するのである。 この厳しさはほぼ毎年同じである。

逆に、日本語の圧縮作業に慣れてくると、仮にポイントを落としたとしても、字数が足りなくて気付きやすくなる。ポイントが多すぎると、どうやっても入りきらないので、ポイントの方を落とそうということになる。満点答案を書く上で、字数制限はむしろ頼りになる。その状態になると本番でも満点が取れる可能性が高まる。

要約ができることのメリット

最後に、要約問題に対して準備することのメリットについて書きたい。

「大学入試は終わった後は振り返ることはない」とよく言われる。しかし私の実感では、確かに振り返ることはなくとも、要旨要約の問題で鍛えられた能力は、非常に役に立つように思う。

私が受験生だった 11 年前には予想もつかなかったのであるが、今の時代は SNS の時代である。 Twitter は、色々なものを可視化してしまったし、その他 SNS や動画サイトをはじめとする新しいメディアは、知名度や人の怒りをカネに変換するメソッドを完成させてしまった。そして、立派な学者が多いことも可視化された反面、一部のアホな大学教員が善意や悪意の上に文章を読解していることもよくあることも赤裸々に可視化された。あの人たちは Twitter で知名度を稼いでカネにしているのであるから、都合の良いように読解し、都合の良い結論を見出す。常に「可燃物」を探しているのであろう。

その時に使うのが「こんなこと原文では言っていない」ということを勝手に追加したり、「原文では言っていることと違うことになる」ように文章を切り出したりする手法である。 「要約問題で絶対してはいけないこと」を駆使して、自分に都合の良い読解をし、その結果を読者に示す。皮肉にもこれが SNS 時代でよく観測されることである。

私は、これができることはそれはそれで大事な「才能」であると思う。その才能にまず敬意を評したい。例えば、今の時代、日本のアカデミアは非常に競争社会である。それが良いかどうかはともかく、事実としては、実績を作り、その実績に高い評価をつけさせることが重要である。他人を蹴落とす方が簡単であるかもしれない。そのためには何だってする、何だって自分の都合よく利用しようとする、それは一つの人生の指針としては間違っていない。私はしたいとも思わないが、やりたくてもできないことである。その才能の高さはすごいと思う。アカデミアだけではないだろう。競争社会というのはそういうものである。

しかし、 我々が、この、今現在のインターネット社会の一員である時には、このようなノイズはうまく排除していかないといけない。 私は 2018 年度の 1A をこの前解いたが、誤った噂がどのように広がっていくかと、それを止めるのは難しい、ということを書いた問題文であった。問題文に直接の言明はなかったが、インターネットの例や表現の自由に言及していることを考えると、明確に SNS 時代の fake news を念頭に置いていたのは論を俟たない。政治的メッセージを発することを避けるために rumors に留めたのではないかと思う。その問題文で述べられている通り、 SNS 時代において、単に事実に触れるだけでは、一度人間が信じた嘘を訂正するのは難しい。

私たちにできることは、事実を妥当に解釈することと、その的確な要約をすることである。そして、悪意を広げないようにする、悪意を広げる動きに加担しないことである。 アカデミアで SNS で目立つ人たちがおかしなことをやっているのは本当に赤面の極みだと思うが、理性が高く、崇高な目標を忘れず、良心の元で学者をやっている人間も確かにいる、重鎮から若手に至るまで。さらに一方で、多くが 20 歳前後であろう東大受験生が、妥当な指導を受けて、要約問題を正確に解答できるようになっているは大変心強いと思う。