怒るまでやめない人

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最近は、関係各所から返事を待つ時間が多い。ゆえに、少し余裕も出てきたので、書き溜めてきた記事を上げることが多い。ここ最近は胸糞悪くなる記事が多いので、胸糞悪くなる記事をまた上げることにする。

以下は胸糞悪くなること間違いなしなので、読まないことをお勧めする。読むなら覚悟して読んでほしい。

本文

悲しいことに、大学院に通っていた頃、私の周りには「相手を怒らせるまでは何をやっても許される」と思っている人がいた。若くして出世したタイプが多い。こういう人とは極めて相性が悪い。私が怒って初めて、自分はよくないことをしたのだと思うらしい。しかし絶対に謝らない。「このくらい許さないのはおかしい」という態度で接してくる。そして「高橋という男はとんでもない男だ」と陰口を言いふらすからタチが悪い。

私はこういう人たちに関わりたくない。こんな人に関わるくらいなら英単語を 1 個でも覚えたほうがはるかに有意義である。こいつらの価値は、英単語帳以下である。比べると『システム英単語』の方に申し訳がない。

こういうタイプは、不自由なく育った人に多いように感じる。私の通ってしまっていた高校よりもはるかに高校のレベルが高かったり、学力はともかく名門高校だったり、親に恵まれたり、教授に特別に目をかけられ出世を重ねている人だったりする。わがままを通してもらっていた側面もあるのかもしれない。

私が怒れない理由

さてどうして、嫌がらせしてくる人間に私はうまく怒ることができないのか。それは生い立ちと関係がある。

私の父親の名前は典久という。父親と書くと複雑な気分になるので、以下は典久と書かせてほしい。

さて、どうして私は怒れないのかというと、私は幼少期からずっと典久に育てられ、その影響で上京後もひどく苦しんでいるからである。典久は典型的な内弁慶で、家では私と千春に怒鳴り散らす。毎晩夫婦喧嘩は絶えなかった。怒鳴り合い、いつも近所中に響いていた。私の睡眠時間は少なかった。

彼が私にやってきたことは刑法上の犯罪も含まれている。ここでは一番彼という人間を表しているエピソードを書いておきたい。

端的な例

2010 年の 1 月、私は下宿先で、講義のレポートを書いていた。

この時、インターホンが鳴った。典久がいた。

母親には、この時は試験期間中だから、邪魔をしないでくれと言っておいた。当然典久にも伝わっているのだが、典久はここぞチャンスとばかりにやってきたのである。

私は居留守を決め込むことに決めた。

そうすると、典久は合鍵を使って共通玄関のロックを解除、私の部屋のドアを開けて勝手に入ってきた。

「レポートを書いている最中だから帰ってくれ」とお願いすることにした。すると典久は

「レポートを書いているだと? レポートは落第した人間が書くものだろ? お前は留年寸前なんだろ? このカス」

と言ってきた。単位をつけるのに試験ではなくレポートをつける科目があることを説明してもわかってもらえなかった。「お前は救済処置を受けているのだ」と主張した。

出て行ってくださいと何度お願いしても、部屋に

「俺が見てやらないと、お前は頑張れないからな。俺が見にきたんだ」

取り合ってられない。締め切りが明日に迫っている。仕方がないから、典久がいるところで頑張ってレポートを書いていた。

すると典久は部屋をおもむろに徘徊していた。気にせずレポートを書いていたところ、変な音が聞こえてきた。

クンクン…クンクン…

こいつは何をやっているんだろうと思って典久の方を向いたその瞬間、目を疑った。 洗濯物に顔を押し当て、私のパンツの匂いを嗅いでいた のである。

私はその時はっきり自覚した。こういうどうしようもない人間に 18 年間も育てられたのである。こいつに毎日のように怒鳴られ、私は「怒り」という感情が麻痺しているのだと。

この時はあまりにもひどかったから、台所にある包丁で典久の首を切ってやろうかと思ったが、それをすると人生台無しなので、頑張って堪えた。

その後 1 年して引越しをすることにした。引越し先の合鍵を渡すように求められたが、ないことにして拒否した。

結論

私は上京して何年も経験を積み、典久が普通の人間ではないということにようやく気づいた。そして自分の性格の一番良くない部分を典久が形成してしまったことに気づくことができた。そして、これが一番残念なことだが、典久から 10 年離れて生活しても、その性格のほとんどを直すことができず、多くの人に迷惑をかけている。

冒頭述べたような人に対する防衛策として、閾値を超えたら、静かに縁を切ることにしている。そして復縁しない。

今後は、この閾値を下げようと思っている。つけあがるが故に続けるのだから、基本的に一発で見限ることにする。