「数学の修得には時間がかかる」ことの概説

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「数学科の大学院に進むとはどういうことか?」という記事が出回ってきた。この記事自体は面白い例えを用いていいことを書いていると思う。具体的には、数学の大学院に行くということは、数学を理解して、新しい問題を解くことだということが、例え話を交えて書かれている。この事実自体は否定はしない。

数学の修得には時間がかかる

数学の大学院に行くことの目的は数学を理解し新しい事実を証明することなのは否定はしないが、それだけ噛み砕いて説明しても足りない。

例えば文系の学部卒で民間企業で営業経験した後人事やっているような方に同様の説明を試みても、このままでは失敗する。なぜなら 1 箇所大きく認識を異にしている箇所があるからだ。

それは 「数学を理解するのには時間がかかる」 という事実が共有されてないことです。「最先端の論文を読むのに、大学入学してから普通は 5 年、分野によっては 9 年かかります。数学は積み重ねの学問です。それまでは必死に勉強です」というと、大抵ものすごく驚きます。話をするならそこからです。

以下は、文系の学部卒の方で、理系の院の事情を知らないといけない立場にある方を、読者の念頭に書いている。以下で書くことは、理論系の理系の人にとっては常識であるから、読んでも全く得るところはない。

数学の研究に入るまでのカリキュラム

勘違いしないでほしいのは、別に文系の学部卒で民間企業でキャリアを積んでいる方の無理解を批判したいわけではないということです。 これに驚くのは自然なこと なのです。例えば人文系だと、学部 3 年生から教授のゼミに参加し、そこで研究活動が行われると聞く。大学 1・2 年の学習は基礎ではあるが、理系ほど積み上げの科目ということではない(法学など、例外はありそうです)。そして、大学 4 年生で卒業論文を提出して卒業する。その類推で、理系の大学院の事情を理解しようとしてくるのは、むしろ大学に通った人として当然だと思う。

ところが、理科系、特に理論系のサイエンスの場合は、話はそうでないのである。数学科の場合、おそらくこれと 最も対極 にある。

まず学部 3 年生まではきっちりカリキュラムが決まっている。目安までに、年代にすると 20 世紀前半までで最先端であった数学までを勉強する事になる(年代に例えるのは意味がないが)。毎日朝 10 時から夕方 16 時まで講義と演習が行われ、夜 22 時くらいまで自分で勉強することを繰り返す。これも大変なのだが、機会があったら、別の記事で書く。

そうして 4 年生になると、セミナーが始まる。ここでも主目的は勉強であり、研究とはほど遠い。教科書の内容を教員の前で発表する。そしてこのセミナーは、数学科では重要な修練として位置付けられている。これは「普通」のレベルではない。詳しくは以下の記事をご覧になってほしい。

この文書は有名で、日本にいる数学科の学生は全員読んだことがあるはずである。そして、普通は、この通りにやる。私は自分の指導教員からこれを強制されたことはないが、自主的にこれを守るようにしていた。どうしてこういう厳しい方法でセミナーが行われるのかと思うかもしれないが、これを説明すると時間がかかるので、機会があったら書く。

これが、普通は修士課程 1 年生まで続く。そこでようやく教科書ではなく論文を読み始めるようになり、修士課程 2 年生の頃に最先端の論文を読み研究を始めることができるようになる。そして大抵、それも教員の指導がある。研究らしい研究は博士課程以降ということになる。 当然、学部に卒業論文などというものは存在しない。勉強している最中だから、書きようがない。

今「修士課程 1 年」「修士課程 2 年」「博士課程以降」と書いたが、私の専門分野では、そうだということである。分野によっては、もっと時間がかかり、「博士課程 $N$ 年」「ポスドク時代」が普通である場合もある。私もいい加減なことは言いたくないので引用に止めるが、例えば RIMS の望月新一教授はリンク先の文書で以下のように書いている。

IUTeich を構成する論文の合計頁数は「準備の論文」も入れると数千頁(=勘定の仕方によって 1500 〜 2500 頁)に上る。 (p.7)

例えば Weil 予想の証明に用いられた 1960 年代の有名な(スキーム論の基礎を築いた)「EGA」と「SGA」の合計頁数は(一桁多い!)一万弱位の頁数に上ります。 (p.8)

数学専攻で民間企業を志望する方へ

以上のことは、よく参考にした方がいい。理論系の学問は修得まで時間がかかることは、私たちから見れば当たり前のことだが、よく強調して、あなたがそれをやったことをアピールすべきです。

今までは人事さんのことを念頭に置いて書きました。ところで、志望している民間企業の中に、以上の経験を積んだ人が既にいると、大抵その人は浮いています。仲間がほしいはずです。あなたが数学の修練をごまかしなくやっているならば、その人が推してくれる可能性が高いです。その辺を原動力にすると良いでしょう。

私が以上のことを認識したのは、駒場の経験豊富なカウンセラーの先生と 1 年話をしたからです。臨床心理士である先生は、大学の事情にお詳しい、専門家です。ところが私が、上で述べたような数学科のことを話すと、必ず驚く。 「えーそんなにかかるの〜」「信じられない」「数学科ってどうしてそんなにアスリートみたいなことするの」 とおっしゃる。

その驚く姿を見て私は驚いた。そうして、認識を改めた。経験豊富な専門家、大学の仕組みのプロの先生ですら、ものすごく驚くのですから、民間企業で通常のキャリアパスを歩んだ方だと想像すらできないだろう。それが自然です。ですから、数学専攻から民間企業に行こうとする方は、自分から説明する以外に方法はありません。

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