母方の祖母について
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母方の祖母が他界してから 2 年ほど経過した。書き残しておきたいと思う。最近忙しくて長い文章を書いていなくて、リハビリのつもりで書いておく。
読者の方がこの文章を読んでも得られるものは何もないです。
どのような方だったか
私の母方は、田舎の農家だった。米やスイカを作っていた。晩年はタバコを作っていた。当然祖母もその仕事に従事していた。
祖母は 3 人の子を産んだ。 2 人は嫁に行き、 1 人は独身である。嫁に行った人の片方から私が生まれた。
特技
私が思うに、祖母の最も得意としていたことは、料理であった。田舎にありがちな大きな家であり、若い頃は多くの料理を作った。私が子供の頃はまだ元気で、美味しい料理を食べさせてくれた。
腕前は確かだったようである。時代が時代だったからというのもあるだろうが、若い頃は、魚の三枚下ろしや肉の加工はもちろん、自分でうどんは打てたし、寿司も握れた。私の母親も料理は得意であったが、全盛期の祖母の 1/3 - 1/5 くらいしか腕前はないと思う。祖母の腕前のほとんどが子に継承されず、その子にはさらに継承されなかったのは、大きな損失という他ない。
晩年
晩年は腰を患っていた。私が高校生くらいの時から腰が曲がってきていて、私が大学進学後には相当腰痛を訴えていたようだ。大きな病院で最新の手術を受ければよくなる可能性もあったのだが、腰が砕けていて手術の難易度が高く、さらに高齢で手術に耐えられない可能性があったので、断念したそうだ。
死因はよく聞いていないが、ある朝、ソファーに安らかに眠って亡くなっていたそうだ。葬式では、長男(つまり私の叔父)が「少々早いように思いますが、腰痛を訴えていた祖母にこれ以上長生きしてくれという方が、厳しい要求だったかもしれません」と言っていたのにはぐっときた。
亡くなったことについて
確かに私の祖母の享年は、日本人女性の平均寿命には届かなかった。しかし、どのような気持ちで晩年を迎えていたのかと思うと、あの時点で亡くなったのは、誤解されない言い方が難しいが、大往生だったのではないかと思う。だから、あの時の私は、涙も出なかったし、悲しみという感情もなかった。
私は、今でも、自分が生まれたことに本当に意味があったのか、生まれない方が幸せだったのではないかと疑っている。祖母が私によくしてくれたのは本当のことだが、私の父方に続く系譜を考えると、私という存在を私自身呪い殺したいと今でも思う。だから、大変申し訳ないけれども、亡くなっていく祖母にありがとうという言葉はかけづらい。安易に感謝するのは欺瞞だと思う。
人は、いつか亡くなるものである。どのように亡くなるかは重要である。その意味で、祖母の寿命は全うされたと思う。困難を抱えつつも、よく生きてくださった。その言葉が、私がかけられる最も正確な言葉だと、今でも思っている。