虐待は生易しい体験ではない

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この記事は読むと気分が悪くなると思う。読むならその辺を考慮なさって欲しい。

本文

この前、またスクールカウンセラーの先生と面談があった。

そこで、家族構成の聞き取り調査をする回になった。

当然、典久(私の父親)の話になる。そこで、過去にあったことの「一部」を話した。

すると、スクールカウンセラーの先生は、声を詰まらせて次のように言った。

あなたの背負っているものは、あまりにも辛すぎる。一人では背負い切れるはずもない。あなたが就職した後も、カウンセラーのところに通って、話すようにしたほうがいい。

涙目になりながら、次のように続けた。

生きていることって、もっと軽くて、尊いことだから。

私のなかで、驚きの気持ちと、腑に落ちたような気持ちの、 2 つが同時に湧き上がってきた。

驚きの方

私がしてきた体験は、カウンセラーさんが泣きそうになる程のことだということだ。相手はプロのカウンセラー、それも本学に勤務する方だ。演技するわけもない。少なくとも、大きく予想を超えていたのだろうと思う。

私の周りの人のほぼ全員は、私が虐待と表現することを「父親が厳しい人だった」くらいに考えているようなのだが(特定の誰かを指しているわけではない)、実態はあまりにもかけ離れている。典久がしてきた行動は、決して教育ではなく、本人のストレス発散であり、刑法上の犯罪も含まれている。それを千春(私の母親)が消極的に肯定することで高橋家は廻っていた。

東大に来る学生の場合、しばしば「父親が厳しく教育をした」というケースがあるらしい。カウンセラーの先生も、私のケースをこのケースだと予想していたようだった。しかし私の場合は、両親の能力がそもそも日本人の平均レベルより低いので、厳しく教育することなぞできるわけもない。私が経験したのは、それよりもはるかに低い次元、低レベルの内容であり、典久のエゴによる。

腑に落ちた方

自分のされてきたことは、教育なのではなく、愛を伴わない単なる虐待なのだと、確信がいった。今まで 99.9% くらいの確信があったが、この数字が 100% に変わった。正直にいうと、踏み込んだところまで他人の話したのは、今回が初めてであった。

このことから、自分は通常の人間が普通に経験する内容と、全く違う前提で生きているということもわかった。その顕著な思想:例えば、私は明日、交通事故などで死んでも全く後悔はないし、粛々と運命を受け入れるだろう。時々諭されるのだが、人というものは、人生に目標があって、その目標の実現のために、取捨選択をしながら生きていくという。それが理解できない。

人は人、自分は自分と思っているものの。しかし、通常の人間になるために、私には欠けているものがあり、それを明示的に補っていかないといけない。それまでは、本来の能力を行使できない。真人間になるために治療を続ける。それがどれほど時間のかかる途方もないことでも、他の人が経験する必要のないような無為なことであっても、私にはやらねばならないことである。

今後の行動

時期が来たら、この日記にも体験談を書こうと思っていた。しかし、この状況を見てやめることにした。繰り返すが、カウンセラーの先生はプロである。そのプロですら、平常の対応ではなかった。

体験談を書くと、「理解できない」という言葉が出るのだろうと思う。人間は「なぜ?」と問いたくなる。しかし違うのだ。 現実で起こることは、理由があって起こることではない。 人間として欠けている人がすることなぞ、理由がつくことばかりではない。そして、人は、理解できないことを突き放したくなるものだ。私の知人たちの知的水準を疑うわけではないが、私の過去の体験談を「理解できない」がゆえに、私を「突き放す」という選択をする層が一定数いるだろうと思う。

ここは慎重になろうと思う。

類似のケースがあるか

東大の場合でも、ごくたまに、私のようなケースがあるらしい。治療に際しては、私の予想よりもずっと長い時間がかかるだろうと思う。

最後に

目標というわけではないが、棋士の羽生善治さんがタイトルを獲得し続けている年齢までは、若い世代が台頭してきてもクリエイティブな仕事をしようと思っている。そこまでに治療が完了(完了なんかするのかという議論もあろうが)できればと思っている。

人生のピークがどこにあるのかは非常に難しい問題だが、恐らく脳を最大限行使できる時期はもう過ぎただろうと思う。それでも、治療を続け、能力が高まる可能性があるなら、途方も無い長い時間がかかる治療も続ける。

現在自分の能力を自然に行使して満足している人にはたどり着けない高みにまで、将来の私はたどり着ける可能性がある。

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