自分に向いているものの探し方

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本文

自分に向いているものの探し方を書いておこうと思う。と言っても、任天堂の前社長の岩田さんの受け売りですが。

「“労力の割に周りが認めてくれること”が,きっとあなたに向いてること。それが“自分の強み”を見つける分かりやすい方法だよ!」って,いつも学生さんに喋ってるんですね。「さっさと得意なことが分かった方が,人生はいいぞ!」って話なんですが(笑) 任天堂・岩田氏をゲストに送る「ゲーマーはもっと経営者を目指すべき!」最終回――経営とは「コトとヒト」の両方について考える「最適化ゲーム」

岩田さんの言葉は貴重なものだ。この記事ももちろんいい記事だ。岩田さんがコメディアンの有野さんと語り合った動画も良い動画だ。任天堂公式のものは削除されたようだが、「社長が課長に訊く」で検索すればまだ出てくると思う。「若いって素晴らしい!」の動画である。

本文は以上です。

余談

以降は私の自分語りなので、見なくて結構です。

この記事はリアルタイムで読んでいた。この記事を読んだ時、すでに私は修士課程 2 年だった。その頃には、内定先を断り、博士課程に進学する意思を固めていた。よく考えればこの頃から、数学よりも計算機の方が「労力の割に周りが認めてくれること」であった。博士課程進学後も計算機をやめることなく続けてこられた。

修士課程 2 年の時には、『実践的プログラミング』を受講したが、その数ヶ月後には、リクルートホールディングスさんにアメリカに連れて行ってもらった。人生初の海外旅行だった。超贅沢な、 1 週間の旅行だった。実プロは、私はエンジョイしながらコードを書いていた。少しも苦痛でなかった。これが「労力の割に周りが認めてくれること」でなくて何なのであろうか。その後 3 年間、大会に出て時々入賞したけれども、計算機と関係ない専攻の私がコンテストで時々賞をもらえるのは「労力の割に周りが認めてくれること」としか言いようがない。身分不相応だとすら思っている。共著で論文も書いた時も、問題はスッと解けたし、投稿したら一発で Accept だった。レフリーのコメントも非常に好意的だった。

数学をやるのも、苦痛ではない。数学の論文を読むことも書くことも好きである。しかし、「労力の割に周りが認めてくれること」かと言われるととてもそうとは思えない。一応、高い評価をしてくださる方は周りにはそこそこいると思う。博士課程 1 年で RIMS Workshop に出られたのは相当厚遇されたと思っている。しかし、そうでないことも多かった。例えば一生懸命学部時代に勉強しても「問題が解くのが上手いだけ」と言われるし、修士 1 年で基礎の勉強しかしていない私は FMSP で落ちた。学振も落ちた。結局先生のいう通りに最新のトピックの研究課題を書いた人が勝った。まとめると、労力の割に評価が高いこともあるけれども、もっとズルイ方法を探してそちらを通った人の勝ちであることも多かった。

さらにいうと、「周りが認めてくれる」の前提である「評価基準」が大変曖昧だと思っている。研究の世界の数学を取り巻く人間関係は、いびつなものに支配されているように思う。特に「価値判断」が非常に曖昧なように思う。業績と業績は、通した雑誌の質で優劣がつくんだというものの、実際は投稿から掲載までの過程で、「投稿論文の全空間」に「正しい順序関係」が入っているとはとても思えないようになった。「正しい順序関係」の「近似」ですらない。全く違う「新しい順序関係」である。本質的価値よりも高いレベルの雑誌に通す技術も重要である。「公募に応募した人の全空間」にもそうだ。ポスドク採用も、やはり思惑同士のぶつかり合いのように思える。まとめると、数学そのものにしても、数学を取り巻く人間関係にしても、何を評価し、何を評価しないかは、偉い人が恣意的に決めているように思う。偉い人の印象によって評価がいきなりガラッと変わることも経験してきた。そして、その感覚はついに拭うことはできなかった。

今から反省するに、そのような世界で、私はどうやって努力をしたらいいのか、わからなくなってしまった。何を目標にして、何に達成するために論文を書くべきかわからなかった。研究者に向いている人は、こういう「歪な勾配」を、自分のアドバンテージに変えられるような人のことをいう。数学者になるのに大事なことは、好きなだけでもダメなのは当たり前だけど、何か研究成果を出すだけでもダメで、本当に大事なのは、勾配を地の利に変えて生き残ることである。それが数学の適正なのだと思う。

私の場合、数理の他の博士課程在学者と事情が違い、博士課程在学中にきちんと「計算機」という「出口」を作ることができた。ゆえに、他人の評価よりも自分の好きなこと、得意なことを優先して、好きなように論文を書くだけでよかった。その部分を今は明確化できているけれども、数学の歪な勾配の中で長い間、見失っていた。これは残念なことだった。念のため書くけれども、数理科学研究科に博士課程に進学した人は、私の真似をするべきではない。普通は、アカデミックポストを必死に狙っていくしかないのだから、自分の好きなことや得意なことよりも、評価の高いことを優先するべきである。その支援を惜しまない教員の言うことを聞いて、体育会系に身を投じて頑張るしかない。

その結果というわけではないが、特に「この人を、将来の教員として推して大丈夫なの?」という人もいる。しかし、優秀な人がアカデミアから逃げて行っているのだから仕方ないのかもしれない。数十年後に我々の世代の「生き残り」が「優秀優秀」と煽られながら教授になった時、日本国のアカデミアの歪みとして顕現することになろう。これには最大レベルの自信がある。

計算機の世界(必ずしも計算機の研究の世界ではない)は、少なくとも数学の世界に比べてずっと健全な世界のように思う。実力ある人は正しく評価されているように思う。その理由は、私見ではあるが、お金といい意味で結びついているからであると思う。例えばコンテストであれば、営利企業にとってはエンジニア発掘の最高に良い機会でもある。だから、順位が正確につくコンテストがだんだんと採用現場で重要なファクターとなるのは自然な流れである。 2018 年現在、 AtCoder は(少なくとも日本の)エンジニア採用のスタンダードへとなりつつあるが、これは社長の手腕の良さも差し引いても、大きな流れ、必然である。これに限らず、計算機という分野には巨額の資本が投入されている。世界の時価総額ランキングを見ればすぐわかることである。比喩を交えていうならば、この世界では、「生き残ること」は、ある意味で当たり前のこととなり、その先の、文化的な人類の発展へ力が注がれている。生き残りをかけた野蛮な殺し合いではなく、健全な意味での競争。その中に、計算機専攻とは限らない優秀な人たちがどんどん投入されている。

このことと、私の将来が明るいか否かは、直接は関係がない。しかし話を戻そう。「労力の割に周りが認めてくれること」が得意なことであり、それを仕事にするべきであるならば、数学と計算機のどちらを私の仕事とするべきなのだろうか。答えは、計算機だ。一貫して、フラットに、「労力の割に周りが認めてくれること」であるからだ。もちろん私は私で、努力はしていると思う。ただ、その努力の仕方が、自分にとって苦痛ではないのだろうと思う。空気を吸って吐くように、自然に努力ができる。数学ももちろんそうなのだけど、しかし周りの評価が、フラットにはついてこなかった。

生きていくためには、自分の努力だけでは足りない。互いを尊重しあえる周りの人の協力が不可欠だ。昔書いたように、自分は河合塾本郷校、東京大学教養学部、理学部数学科、大学院数理科学研究科(の修士課程)に行けて幸せだったと思う。今後も、そういう場所で、自然な形で努力ができるといいと思っている。

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