どなたを指導教員にするか (1)

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先輩方の進路を見ていて、どなたを指導教員にするかはその人の将来と相関性があるように、なんとなく思う。 巷には指導教員の選び方が書かれた記事が沢山あるし、そちらが参考になるだろう。 しかし、現役の研究者だと立場上書けない事が多いからだろう。 私は私の記事で、個人的な視点で書いておこうと思う。私は二度と大学院に通わないだろうし。

人によって目指すべき人生が違う。だから「こういう先生がいいよ」とは書けない。そもそもそんな失礼なことは恐れ多くて書けない。 こういう人生を目指すなら、こういう指導教員とのお付き合いの仕方になるだろう、という形で書く。

記事が長くなるので分割しようと思う。

「研究者」になるのなら (1)

私は研究者になる方法を第三者的にしか見れていないので、ざっくばらんに書く。

大学院とは、「研究者」を育てる場所である。もちろん研究成果はあるに越したことはないが、第一の目的ではない。予算をとって組織が存続することや、少しでも分野の権威を高めることはもっと大事である。「研究者」とは、研究の世界を存続させられる人を指すのだと、理解するようになった。

査読付き論文との関係

査読付き論文は、基本的には今のところはまだ有効な手段だと思う。例え査読付き論文に通っても、指導教員の好みに合わなければ研究成果は「ないもの」と同じなので、基本的には指導教員の指示を受けて、その指示通りに論文を書くのが確実だろう。私は「査読付き論文にのる研究成果」が「研究の目的」で、その成果を自分で挙げられるようになることが大学院に通う目的だと進学前は思っていたのだが、その時点で院生として決定的に間違っていたのである。

中には「好きな分野を見つけて論文を書きなさい、私は指示しないから」という教員もいるが、その方だって自分の研究分野に近いところをやらないと怒り出す。結局院生とは、無償の労働力である。できれば研究費を取ってきてくれると嬉しいが、そうでないならせめて右腕として働いてほしい。それが多くの教員の願いだろう。

論文を通すには

ぽっと出の学生が何かやっても、ないのと同じである。そこで、いい雑誌に通すには何か別の力が働くことになる。最も簡単な方法は、先生がエディタをやっている雑誌に通すことのようである。

この方法は厳密には不正ではないのかもしれない。確かに、エディタでないレフリーに査読され、通っている以上、数学的には不正はないと思われる。しかし、研究成果を載せる雑誌の格が上がるのは明らかである。

昔参加した研究倫理のセミナーでは、自分の指導教員がエディタをやっている雑誌には投稿してはなりませんと指導された。しかし、いろいろな人の話を聞くに、「厳密にはよくないけど…」といいながらおこなわれているのが現状のようである。

今の時代だと communicator がどなたであるのかはっきり書かれる雑誌もあるから、こういうのはすぐバレてしまうのだが、実際は就職をキメるほどの力があるようだ。

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